20130505

どっどどどどうどどどうどどどどう

そんな感じで。

きりとられた「今」って、だんだんと古びていくから手触りがやさしい。生々しい傷にかさぶたができるように、重ねた記憶が層になる。

 

 

過去の記事を読み返して、え、夏なんだ、とか、すでにへばっている、などと思うなどしました。三ヶ月くらい経っているんですけど、いまひとつ主婦業から脱却はできていなくて、ぼちぼちとへばってもおります。

 

あれからこのかた、いまだ実家暮らしのわたしです。家事負担うんぬんというか、もう介護負担に移行しているというか、あれからもいくつか家人の入院を経たのですが、祖父母も年が年なのでまあそういうことですよね。身体自体も弱っているので行動制限もたいへんなんですが、アルツハイマーの進行具合も気になっているところです。「なにをするかわからない」ということがいちばん怖くて、わたしの外出がなかなかままならなくなってきています。家にこもっていること自体が閉塞感なのですが、配慮が必要なもろもろだとか、普段の家事のことだとか、そういうことが重なるといやなことにしか目が向かなくなってきてしんどいですね。

人の言葉をすべて真に受けるのは危険だということはもちろん踏まえつつ、最近インターネットで見たのが「気晴らしとなることが、別のものとしてよっつあれば、こころは健康でいられる。それは、誰かに愚痴を言うことなどのちいさなことでかまわない」という言葉なのですが、なるほどなあとも思います。ひとつに限ってしまうと、それが出来ない状況にあるとつらいですもんね。わたしにとっては、なんだろう。

 

実家を飛び出せない理由でもあるのですが、ここひとつきほどで犬を飼いました。元の飼い主さんが手放したコで、柴犬の女の子です。年齢はだいたい2歳くらいかな。もう成犬なのですが、なんだか不安定でたいへんでした。獣医さん曰くの「日本犬を厳しく育てる人はいる」ということなのかもしれないのですが、ピクリとも鳴かずただただ甘えたで張り付いてばかり、確かに元の生育環境に不安があって、(それとともに、殺処分がすでに現実として近くあったようで、)なかば強引に連れて帰ってきたコなので、ざっくりと言えば「元の住処で怖いことがあったらしい」ということしかわからないです。ようやく鳴くようになり、家にも馴染んだようで、いまは凛々しく吠えています。

まあそれはそれでたいへんだったのですが、約二週間前の土曜日ふっと小屋を見ると、「おや」と二度見をして、いやはや、我が子のごとくかわいがっているムスメ、名前を麦と名付けたのですが、簡単に言えば前の家にいた時点で妊娠していたようなんですよね。子犬がコロッと麦の乳を吸っていて、朝からビックリでした。一匹かな、と思っていたら目を離しているうちにコロコロっと、麦と三匹の子犬が家にいます。子犬はただひたすらにかわいい。完全なハプニングだったんですけど、まあとにかくかわいい。麦の子犬時代を知らないので、子犬の姿を見られるというのはうれしくもあります。ただ、もうすこし育ったら里親さんを探さないといけないので、すこし不安です。やはり四匹全員は家で育てられないので、二匹くらいなら考えられるかなとは思いつつ、どういうことになっても全員しあわせになって貰わないとならないなーと思います。

 

「しんどくなる」ことの理由として、ちゃんとしなきゃ、完璧にしなきゃ、という思考があるみたいで、もうすこし気軽に生きたいなと思ったりします。家事に関してはもうキリがないし、やることも多い元気にも限りがある、ほどほどくらいでやっています。今日はシーツと布団を干したのではなまる。勉強は正直ぜんぜん手をつけられていなくて、でもあきらめる気はやはりなくて、どうやってやっていくかは今後の課題です。「存在することが得意です」ってくらい、自己肯定で生きていきたいな。自分にはなまる。

 

そういうつらさやしんどさも過去になって、やさしい手触りになればいい。

そんな感じ。

 

f:id:neverm0re:20171109135539j:plain

【追記】子犬、よく動くのでよく小屋から落ちている。