20130505

どっどどどどうどどどうどどどどう

閏年〜寒暖差に弱い〜

 年末年始と言わず、あらゆる年中行事が苦手なのだけども、本年は元旦からの地震から、現在に至るイスラエルのジェノサイドなどを受けて、なにもめでたさを感じられず、感じられないからこそ変な緊張のまま1月を過ごし、2月になって寒暖差で驚くほど具合を悪くしている。
 人から指摘される「自分に厳しいのでは?」との言に懐疑的なところがあり、本当に自己に厳しいのならよりさまざまなことを出来ているはずだ、と思うのだけれど、厳しさと成果はイコールではないということを踏まえると、成果にも努力にも満足がいっていない時点で、ひとつの意味では「自分に厳しい」のかもしれない。

 重ねて、自分への厳しさはストイックな努力のみを指すわけではないのだし、努力不足を意義なく噛むのは単なる自虐のたぐいのような気もする。できないことはできないという、ひとつのあきらめとか、ゆるやかな努力を無視している。自虐ないしそれに類するものに意味をあまり見出せないので、そのことに恥じらいを感じている。己に自信があり余裕のある人間になりたいと思っているのだけれど、日々日々少しずつ剥がそうとしている緊張など、理不尽に他人に責められる感覚のようなものがある。よしでもあしでもなく、存在するのがわかる。
「愛されて育ち自己肯定感が高い人間には余裕がある」旨の、まあそれはそうだろうなあ、以外に言うこともない発言のことを思い出したりするのだけど、今の自分に想像しうる範囲のことでも、ただの生活に""強張り""のない人間のほうが余裕があるのだろうなあと思う。ガザでは雷と爆撃の音の違いがわからず混乱する子どもがいる、ということを動画に見る。わたしはちいさなころ稲光を見ると窓辺に張り付く子どもだった。

 言葉ひとつに文脈があり、前述の言葉は文脈を考えず使い古されていないか、と感じるところがあるのだが、一面に間違いがないということは完璧を意味しないので、やはり、まあそれはそうだろうなあ、と思う。長じるにあたってさまざまな学習のうちで、愛だとか自己肯定感だとか安心を知る人間もいるのだろうし、人生は遡って変更することはできないのだから、そういった方面の安心を得たい。過去に関連のないものはないにしろ、育ちなんてものに関係なくそれぞれ異なる形の幸福をひとつずつ手にすることができる、だとか、そもそも常に幸福が保障された人間なんていないだとか、指の長さひとつひとりひとり違うのだとか、そういう話をしていきたい。

 無限とは言わずとも溢れる泉くらいの感覚で物欲があるが、すべてを手にすることはできない。岩波の新書はキャンペーン中(新刊三冊応募者全員読書ノートプレゼント)のため、手に入れたいな〜という気持ちがある。

 これを打っているのがスリコで割引になっていたキーボードなのだけど、ちいさくてキーの幅が狭く誤字があまりに多いので安いのがもうひとつくらい欲しい。各デバイスごとに安ものを用意するより切替のできるものを用意したほうがいい気もするのだが、どうしたものなのかよくわからないな。おすすめがあったら教えてください。

 

 

 

 公式設定の発売日が今日の本(※本屋にいつ入荷されるかって場所によるから公式って目安じゃん…という気持ち…)で、わたしはカフカの「変身」が好きなんですが、カフカへ当てられた失われた手紙たちの創作らしく、ものすごく読みたい。新潮クラストブックスを悩まず買える人生になりたい。