20130505

どっどどどどうどどどうどどどどう

今だから話せること」、思いつくのは言った本人はそろそろ忘れているだろう、と言うようなことだろうけれども、角が立ちそうな話題しか引き出しから出てきそうにない。比較的角が立ちにくい、というのは、もうこの話題を出さなきゃあんまりやっていけないような場面がなくなった、ということでもあるので書くのだけれど、「本が好きだが特別読書家という認識でもないので人に言うのが恥ずかしい」ということのような気がする。

 

 春になると、漠然と大学生のゼミのはじめての人間の顔を思い出し、わたしはあまり卒のない人間として生きてこなかった。ぜんぜん上手く生きてこなかったので、他人に対して自己紹介をするのもあまり得意ではなく、「どのあたりまでオッケーなんですか?」というようなことを考えている。「へえ」くらいで終わりたい。踏み込まれたくない。さらっと流されたい。邦楽ロックが好きな子どもだったのだが、聞き返されない範囲で答えたい。決して嘘をつかず。そのようなことを考えているが、重ねて卒のない人間ではないので、そのあたりで丁度良い引き出しを用意できているわけでもない。今考えると、どこかに寄せてそれっぽい返答をしてみんななんとかしていたのかもしれないが、「このへんなら……」くらいの気持ちでアーティスト名をあげた気がする。もう何を言ったのかも覚えていない。

 地味な人間として、「本が好きです」というのは回答として無難だということもわかってはいるけれども、作家名を聞かれてもなんにも、そのときはほんとうに無難な名前が何も引き出しになくて、「ミステリとか。クリスティが好きです」で終わる。アガサクリスティ、もう「面白いから読んでください」以外言うことはない。でも、本が好きと言うとめちゃくちゃ読書家、とてもよく本を読んでいる印象がある気がして、あんまりわたしは本を読むのが早くない。あと、そのとき、これはようやく辿り着いた、本当に「今だから話せること」なんだけれど、「(わたしに)本を勧めてくる人間のことは全員嫌い」くらいのことを思っていた。角が立つ。

 というか、おそらく学生というものは本をとりあえず勧めやすい存在であって、なんか本を読みそうな地味な外見をわたしもしており、重ねて「本が好き」なんて言おうものならまあ本を勧めたくもなるだろうな、という気もしなくもないが、人間は、やんわりと言えば人間には好みというものがあり、突然学生に「これを読んだほうがいい!」と言うような人間はわたしの読書遍歴などには興味がない。そこまで言うのもアレ、ちょっと私怨が煮えている気もするが、食べ物に好みがあるように本にも好みがあり、せめて、カフェ系統に例えるなら、「駅前のなんとかってカフェが、結構凝ったドリンクも出しててハマってるんだよね!(個人の感想・おすすめ)」とかならまだ良いんだけど、「コーヒーが好きならなんとかって店のこれを絶対飲んだほうがいいよ!」「若いうちにあの味を知っておいたほうがいい!」とかはもう、なんだこいつになる。書いておいて、ややわかりにくい例えをしたと思う。

 ちょっと流行ったビジネス書とか、心理学の名著をエッセンス化した何か、もう大体嫌いだな、になってしまう。「これは名著だよ」はやや別の枠に入れるが、「太宰治は……」とか「夏目漱石は……」あたりではもうそれを言った人間に対して大体もう、心が閉じている。太宰治は斜陽が好きだし、真に高貴なお母様を表現するのに庭で美しくションベンをするシーンを指すあたり、もうなんか高貴な人は何をしていても高貴という清々しい気持ちになっていい。夏目漱石は猫が妙に日本語話者として流暢なところが好きじゃないが、坊ちゃんとか一昔前にちょっと金銭的に余裕があるとこんな感じなんだな、みたいなやつが面白い。

 嫌なやつだなあと自分でも思うが、これを勧められると絶対に心を閉じる作家がいて、今は知らないんだけど、そう、今はもっと勧める本に多様性があると信じたいんだけども、絶対に心を閉じていた作家がいて、ほんとうに嫌なやつだなあ、うるせえなあと思うんだけれど、そして流行りというものがあるんだけど、それが「村上春樹」だった。わあ、懐かしい。いま、吐き出せてうれしい。初対面の、ほぼ初対面の人間に、村上春樹を勧めてくる人間のことがめちゃくちゃ嫌い。これは村上春樹に対する何かというより、つもりつもった「なんで?」の私怨のほうが強い気がする。基本的にあまり恋愛ものが好きではないが、そのとき勧められていたのが村上春樹のそのへんのアレ(もうぼんやりしている)だったからかもしれない。風の歌を聴け、とかは楽しく読んだし、ふつうに好きだ。

 でも、ほんとうに、まあ人にものを勧めるというのがデリケートな行為だとしても、ちょっと村上春樹を恨みすぎて生きてきてしまったな。今は、今はほら、なんとなく気を遣う目上の人とか、そのような人に本を勧められることもなくなったし、なんとなく別の好みの本の話にすることができる。

 今だから言える、ごめんな、村上春樹。ごめんな、なんか、いろんな人たち。でも、いまだにサリンジャーは野崎訳で読みます。