20130505

どっどどどどうどどどうどどどどう

閏年〜寒暖差に弱い〜

 年末年始と言わず、あらゆる年中行事が苦手なのだけども、本年は元旦からの地震から、現在に至るイスラエルのジェノサイドなどを受けて、なにもめでたさを感じられず、感じられないからこそ変な緊張のまま1月を過ごし、2月になって寒暖差で驚くほど具合を悪くしている。
 人から指摘される「自分に厳しいのでは?」との言に懐疑的なところがあり、本当に自己に厳しいのならよりさまざまなことを出来ているはずだ、と思うのだけれど、厳しさと成果はイコールではないということを踏まえると、成果にも努力にも満足がいっていない時点で、ひとつの意味では「自分に厳しい」のかもしれない。

 重ねて、自分への厳しさはストイックな努力のみを指すわけではないのだし、努力不足を意義なく噛むのは単なる自虐のたぐいのような気もする。できないことはできないという、ひとつのあきらめとか、ゆるやかな努力を無視している。自虐ないしそれに類するものに意味をあまり見出せないので、そのことに恥じらいを感じている。己に自信があり余裕のある人間になりたいと思っているのだけれど、日々日々少しずつ剥がそうとしている緊張など、理不尽に他人に責められる感覚のようなものがある。よしでもあしでもなく、存在するのがわかる。
「愛されて育ち自己肯定感が高い人間には余裕がある」旨の、まあそれはそうだろうなあ、以外に言うこともない発言のことを思い出したりするのだけど、今の自分に想像しうる範囲のことでも、ただの生活に""強張り""のない人間のほうが余裕があるのだろうなあと思う。ガザでは雷と爆撃の音の違いがわからず混乱する子どもがいる、ということを動画に見る。わたしはちいさなころ稲光を見ると窓辺に張り付く子どもだった。

 言葉ひとつに文脈があり、前述の言葉は文脈を考えず使い古されていないか、と感じるところがあるのだが、一面に間違いがないということは完璧を意味しないので、やはり、まあそれはそうだろうなあ、と思う。長じるにあたってさまざまな学習のうちで、愛だとか自己肯定感だとか安心を知る人間もいるのだろうし、人生は遡って変更することはできないのだから、そういった方面の安心を得たい。過去に関連のないものはないにしろ、育ちなんてものに関係なくそれぞれ異なる形の幸福をひとつずつ手にすることができる、だとか、そもそも常に幸福が保障された人間なんていないだとか、指の長さひとつひとりひとり違うのだとか、そういう話をしていきたい。

 無限とは言わずとも溢れる泉くらいの感覚で物欲があるが、すべてを手にすることはできない。岩波の新書はキャンペーン中(新刊三冊応募者全員読書ノートプレゼント)のため、手に入れたいな〜という気持ちがある。

 これを打っているのがスリコで割引になっていたキーボードなのだけど、ちいさくてキーの幅が狭く誤字があまりに多いので安いのがもうひとつくらい欲しい。各デバイスごとに安ものを用意するより切替のできるものを用意したほうがいい気もするのだが、どうしたものなのかよくわからないな。おすすめがあったら教えてください。

 

 

 

 公式設定の発売日が今日の本(※本屋にいつ入荷されるかって場所によるから公式って目安じゃん…という気持ち…)で、わたしはカフカの「変身」が好きなんですが、カフカへ当てられた失われた手紙たちの創作らしく、ものすごく読みたい。新潮クラストブックスを悩まず買える人生になりたい。

更新すぐ止まる2023

 更新は意識しないとすぐ止まるし、日中用事がないとパタリと寝てしまう。今日はiPhoneにアプリを入れたので、新年までおおよそ三時間だなあと思いながらフリック入力をしている。わたしはわたしのMacBookのことをほんとうに好きなのだけど、USB端子の件など昔より不便になったと感じることが多いため、改善していきたいなとも思う。

 振り返って「なにもなさずに年を終えたな」という悔いがわいているのだが、なんとか生きて年を越せそうなので、それは真面目に良かったんだと思う。死にそうな持病があるわけではないが、人間何が起こるかわからず、今も戦時下にある国があり、多くの命が危険にさらされていて、わたしはいまのところなんとか、なんとか生きているな、という感じがある。なんとかなったのかと言われたらなんにもなっておらず、実家なので細々生きているがそれもなんとも言い難いし、もっとなんとかなりたいという気持ちがあるが、いっぱいいっぱいになっている。祖父が亡くなったあたり、おそらくかなりだめになっていたのか、事情を知らない他人に「なぜもっとやれないのか?」と言われて、泣いたことなどを思い出したりしている。

 ひとつひとつわかったと思うことがあれば、あまり考えなくていいことがわかったと流したりなどしていて、これでも多くのことが処理されたように思う。冬ということもあるのか、ふとした悲しみを思い出したり、それを「傷だ」と呼んでいいことに気がついたりしている。「そのようなことで傷つくのは弱いからだ」と責める声が一番の傷なのだと自覚が強くなっている。別に人は傷ついていいし、傷ついたからといって途方もない何か、名誉のような何かが毀損されるわけではない。ささくれに血が滲んだら傷の手当てをしてこれからハンドクリームをよく塗って過ごそう、みたいなことなのだと思う。傷を愛せるかはともかくとして。楽になったことと言えばそうなのだと思うし、泣いてしまうようなことに気がつかないようにしている節もある。

 総括すると、荷解きをするような一年だったのかもしれない。立ち止まっていることは不安材料なのでなんとかしたいと思うが、きっとずっと弱っていた。弱っていてもできることをやっていこうと思う。安心できる場所が欲しいと思うことがあるが、安心は日々の積み重ねや経験であって、飛び跳ねるように得られるものではない。まとめとして以上に不穏なことは書かないで置こうと思うが、「安心できる場所がないまま育った人はたくさんいて、その人が安心できるようになれないわけではない」という旨のことを今年は聞いて、心に留めて置こうとは思った。

 成長としては好き嫌いがさくさくわけられるようになった気もする。相変わらず鈍臭く要領は悪い。強みがわからないまま大人になって、大人といえる年のまま困惑している。おしゃべりが苦手で、それは相手の意図を汲もうとしすぎるからで、あまり考えなくていいどうでもいい会話や、自分の意見や感想を言うのは気が楽になる。人の機嫌の動きを感じると疲れる。人の話を聞くのもまとめるのも苦手ではない。機嫌の悪い、嫌な流れを感じるとほんのり頭痛を感じる。フラットに戻そうとする、取り成そうとする癖があると気がついたら、ややマシになった。機嫌の悪い人は機嫌の悪いままでべつにいい、良くも悪くも。

 

 

 年のまとめに書いたので、いっそう日記ぽい記事になった。人の目の意識と、自分の意図と、みたいなことも考えたな、なんてことを思いながら終わりにする。良いお年を。

秋秋

 9月になった途端に服屋は一斉に秋冬がメインになり、今年のわたしはH&MZARA終値おもしろワンピースを買いそびれた。しかし、今月うっかりTシャツを買い足している。わたしはおもしろTシャツが大好きだし、おもしろTシャツはおもしろTシャツが好きな人が着ているんだなということがわかりやすい気がする。わたしはおもしろTシャツが好きなので着ています。アロハシャツも好きです。

「きみは骨格的に華奢にはなれないし健康であればいいのよ」というホンワカした地元内科医の言葉はまあまあ子ども心に刺さるものがあったが、言いたいことはわかる。不健康と共に生きているので、子ども時代はシンプルにやつれていたのだけど、明らかに肩や胸骨、胴回りあたりは強靭だったように思う。まあ不幸中の幸いくらいのことのような気もするが、小リスのように見るからに小柄で骨が細い親戚は簡単には体調を崩さないので、釈然としない気持ちでもある。ある時期から不健康に太り、今はふつうに減量をしている。健康になりたい。やつれたいわけではなく。できればこの肋骨の付近に、屈強な腹筋と背筋などを得たい。正直安定して筋トレをする体力からあまり足りていない。虚弱はふつうに生きているとふつうに虚弱ですが、虚弱エピソードを言ってわたしが楽しいわけではないので略する。たぶん、吸血鬼すぐ死ぬとかを読んだほうがいい。虚弱はつついただけで死ぬことができる。わかる。

 

 田舎の駅で2割だとしてクリエイターマーケットに行くと体感9割9部いるタイプの人間として生きて行きたい。なんかバジル育ててそうな感じの。わたしは丁寧な生活ができないタイプなので、あまり植物には手を出したくないが、ミントが好きなので繁殖力に期待してみたい気もするな。さすがに決して地植えにはしませんので……。

 H&Mのメンズにかわいいパイルのカットソーがあり、パイルの半袖のカットソーというだけで欲しいが、今年買ったTシャツの数をわたしは覚えていない。昔のものはわりあい処分したので許されないだろうか。夏物のカットソーは、安価で柄が好きという理由で買えるので、増える上になかなか減らすことができない。「好きだ!」という気持ちで手に入れている。それが、ゴールデンカムイの変顔UTだったりするけど……。

 

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 暑気中りが激しいなか、「なんとなくわかった」を相変わらず繰り返していて、細かいところだとBEARの使い方をYouTubeで見ていたら、「あっ待ってPDFの中継地にできるじゃん!」などに気がついたりした。マークダウン記述をつるつると端から忘れるので、紙にでも書いて貼っておきたい。どんくさい使い方をしていると思う。

 夏にはしゃいで積んだ本を崩せないまま9月に入ったため、慌てているのだけれども、毎日毎日ほんとうに眠たい。あまりよくないループにハマってしまったな、ということを感じている。浅い眠りに付き纏われている感じがある。ふとすると深く寝てしまうが、持続性はたぶんあんまりない。

 なにかをしそびれたという気持ちがいつもあるが、割り切ることができないので、「休みたいな〜〜」も宙ぶらりんになっている。いつも中途半端になにかをやりかけている、という気がしている。ちょっとずつ、とか、できることから、とか、そういう言葉でなんとかやっているが、メリハリがあまりないな〜〜という気もする。部屋は荒れている。じゃあゼロなのかというと、せっせと気に入った布でカーテンをかけたりだとか、和室の目隠しを作ったりだとか、(さまざまな無理を押して)家具を動かしたりだとか、そういうことはちまちまとしている。ゼロではない。でも、「三連休あったら元気な人はすっかりこういうことを終わらせちゃうんじゃない!?」みたいな気持ちがものすご〜〜〜〜くある。元気な人の倍以上の時間をかけて、少しずつ、できそうなときに、やりたいことをやっている。歯磨きしただけでも己を褒めて生きているが、「これは早く終わってくれよ」という思いがあるな。衣服の整理、中途半端な部屋の模様替え、読み終わりたい本、進まない勉強。

 

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 秋は手帳のシーズンでもあるので、無印とロルバーンの干支シリーズでやっていく気があったんだけど、手帳の高橋が出している小型手帳をふと見たら、なんというか、あまり並べるのもアレかとは思うのですが、能率手帳の趣があってすごくよくて、月間ブロックと見開き一週間を求めている(かつ小口が染めてあってかわいい)ので、心が揺れている。秋の空、雷はもうやめてほしいな。

夏飛ばし

 定期的にブログを書く習慣をつけたいと思っているが、夏のわたしに何かを期待するのは間違っていると思う。ひとつ前が三月なのだけど、「光陰矢の如し」ってやつだな〜〜ということ以外出る言葉がない。あんまり記憶もない。

 日々日々しんどくなりながら、「なんとなくこれはこういうことだったのかもしれない」と思うことがあり、つまり「あのとき響かなかったこと、あのとき言葉にできなかったことが腑に落ちる、言語化できるものになる」という体験を繰り返している。いた、というより、それなりに長い年月のことをやっと腑分けしている、という感覚がある。周回遅れ、という言葉は一時期よく聞き、なんとなく自分も書いた気がするが、周回も単位が干支一回りずつくらいになってくると、周回という言葉すら正しくないような気がする。多くの人はわたしよりもっと早く気がついていたのか、気がつかなくても大丈夫だったのか、気付きながらきちんと生活をしているのか、よくわからない。

 比較的身を恥入りがちなのだけれど、恥じらうところは人それぞれであることや、「いやそれはダメでしょ」と思うことも本人にとっては恥にならないことがある、ということも腑分けのひとつのように思う。

 大袈裟なことを言うと、このあいだ車に轢かれかけたのだけど、実際ひやひやしていたのはわたしであって、運転手はあんま気にせず行っちゃったな、たぶん夕飯を食べているころには相手は忘れているであろう走り振りを、後ろから無傷のわたしは呆然と見ていた。「危険運転じゃん!」ということでわたしは怒っているが、まあ実際怪我もないこととして運転者は肝を冷やしてはいないんだろうな。そういう感覚の違いが世の中にはよくあり、危険が現実化しない限りまあなんともなくみんな過ごしているのであろうな、ということなどです。わたしは危険運転のことをほんとうにダメだと思っているし、狭い道を無理に走行しようとするのはやめような。あと、この話は「実際事件にならなかった事件事故未満のようなものは世の中にはたくさんあり困っている人は多いのだろうな」という話でもある。わたしにとって「大丈夫ではない」が、他人にとって「気にするようなことではない」ということはあるかもしれない。

 軽微なところだと感覚の違いだね、ということだけれども、この感覚の違いとして処理しているようなことが深刻になると大ごとになるのもそりゃそうだな。実際わたしは無傷なのでこうしてものをのんきに書いているんですが、ぶつかっていたら危険が現実化して地方のニュースに乗るくらいのことにはなっていただろう。

 世の中ってそういうことで回っているような気がする。そう思うと、わたしは結構憂鬱を感じるが、曖昧なところがないとつらい気持ちもわかる。

 そう、たぶん「自分がとても困ったこと」があったとして、「相手は困らせた気はまったくない」ということは世の中にはよくあって、そういうときに「怪我をしました!」はわかりやすい。曖昧なままでいることが困りごと、さまざまな不都合を生んで、どうにかなって欲しいと願うことがあるんだけど、「怪我をしました!」と言えることがないときは変わらないことが多いな、ということが腑に落ちたのかもしれない。それらが過去にたくさん発生していたんだな、と思うことがわかったんだと思う。

 「みんなたいしたことがないというかもしれないし実際殴られたわけではないんだけど」が、自分のつらさとか苦しさを無視するってことだったのかもしれない。安全なところに戻ってからでも、「いやなやつだな」とか「ひどいことを言われた」とか、そう言うふうに処理できていなかったと思う。できたら、それをシェアできる相手が、安全な場所が、あったらよかったのかもな。

 

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 夏になると割り増しで疲労をして、レトロゲーム発言ではございますが、昔のポケモンが「どく」状態になったときみたいに、数歩ごとにHPが減るような気がしている。今年はものすごく気をつけて過ごしたので、熱中症らしき症状は出なかったが、振り返ると去年はひどいものだったと思う。比較するとわかることはある。なにせ、具合が悪い人間ってあんまり頭が働いていないので……。

 なんとなく更新を楽しみにしている人たちや、その人たちのおすすめなどによって、カバンの中身やポーチの中身の記事を見ることができてうれしいな、とも思った。疲れていても読むことはできそうなので、もっと読み、もっと書きたいと思う。回数があれば慣れることもあるのだろう。言語化以前の、ツールの使い方などの問題についても、たぶん回数があればきっと。

 9月に入り、今年が発災100年ということもあって、羊の怒る時を買った。

 

(余談だけれども、最近、韓国文学を眼にすることが多いので、斎藤真理子さんは本当にあらゆるところにいるという気持ちになっている)

 夏バテを極めて完読した本が少ないが、少し調子のいいときに積み本を増やしてしまうので、読んだ本の話は少しずつしたい。図書館の本を限界まで走っているので、それが落ち着いたら、とりあえずはこの本を読むと思う。

 二週間に一度くらいはブログを書きたい。夏ほんとうに不健康に太り、冬減った分悲しみが深い。健康上の問題のため、減量や筋トレや……と考えていると、ちゃぶ台くらいは返したくなるし、一日寝ずに布団に転がってゲームばかりしていたくなる。

今だから話せること」、思いつくのは言った本人はそろそろ忘れているだろう、と言うようなことだろうけれども、角が立ちそうな話題しか引き出しから出てきそうにない。比較的角が立ちにくい、というのは、もうこの話題を出さなきゃあんまりやっていけないような場面がなくなった、ということでもあるので書くのだけれど、「本が好きだが特別読書家という認識でもないので人に言うのが恥ずかしい」ということのような気がする。

 

 春になると、漠然と大学生のゼミのはじめての人間の顔を思い出し、わたしはあまり卒のない人間として生きてこなかった。ぜんぜん上手く生きてこなかったので、他人に対して自己紹介をするのもあまり得意ではなく、「どのあたりまでオッケーなんですか?」というようなことを考えている。「へえ」くらいで終わりたい。踏み込まれたくない。さらっと流されたい。邦楽ロックが好きな子どもだったのだが、聞き返されない範囲で答えたい。決して嘘をつかず。そのようなことを考えているが、重ねて卒のない人間ではないので、そのあたりで丁度良い引き出しを用意できているわけでもない。今考えると、どこかに寄せてそれっぽい返答をしてみんななんとかしていたのかもしれないが、「このへんなら……」くらいの気持ちでアーティスト名をあげた気がする。もう何を言ったのかも覚えていない。

 地味な人間として、「本が好きです」というのは回答として無難だということもわかってはいるけれども、作家名を聞かれてもなんにも、そのときはほんとうに無難な名前が何も引き出しになくて、「ミステリとか。クリスティが好きです」で終わる。アガサクリスティ、もう「面白いから読んでください」以外言うことはない。でも、本が好きと言うとめちゃくちゃ読書家、とてもよく本を読んでいる印象がある気がして、あんまりわたしは本を読むのが早くない。あと、そのとき、これはようやく辿り着いた、本当に「今だから話せること」なんだけれど、「(わたしに)本を勧めてくる人間のことは全員嫌い」くらいのことを思っていた。角が立つ。

 というか、おそらく学生というものは本をとりあえず勧めやすい存在であって、なんか本を読みそうな地味な外見をわたしもしており、重ねて「本が好き」なんて言おうものならまあ本を勧めたくもなるだろうな、という気もしなくもないが、人間は、やんわりと言えば人間には好みというものがあり、突然学生に「これを読んだほうがいい!」と言うような人間はわたしの読書遍歴などには興味がない。そこまで言うのもアレ、ちょっと私怨が煮えている気もするが、食べ物に好みがあるように本にも好みがあり、せめて、カフェ系統に例えるなら、「駅前のなんとかってカフェが、結構凝ったドリンクも出しててハマってるんだよね!(個人の感想・おすすめ)」とかならまだ良いんだけど、「コーヒーが好きならなんとかって店のこれを絶対飲んだほうがいいよ!」「若いうちにあの味を知っておいたほうがいい!」とかはもう、なんだこいつになる。書いておいて、ややわかりにくい例えをしたと思う。

 ちょっと流行ったビジネス書とか、心理学の名著をエッセンス化した何か、もう大体嫌いだな、になってしまう。「これは名著だよ」はやや別の枠に入れるが、「太宰治は……」とか「夏目漱石は……」あたりではもうそれを言った人間に対して大体もう、心が閉じている。太宰治は斜陽が好きだし、真に高貴なお母様を表現するのに庭で美しくションベンをするシーンを指すあたり、もうなんか高貴な人は何をしていても高貴という清々しい気持ちになっていい。夏目漱石は猫が妙に日本語話者として流暢なところが好きじゃないが、坊ちゃんとか一昔前にちょっと金銭的に余裕があるとこんな感じなんだな、みたいなやつが面白い。

 嫌なやつだなあと自分でも思うが、これを勧められると絶対に心を閉じる作家がいて、今は知らないんだけど、そう、今はもっと勧める本に多様性があると信じたいんだけども、絶対に心を閉じていた作家がいて、ほんとうに嫌なやつだなあ、うるせえなあと思うんだけれど、そして流行りというものがあるんだけど、それが「村上春樹」だった。わあ、懐かしい。いま、吐き出せてうれしい。初対面の、ほぼ初対面の人間に、村上春樹を勧めてくる人間のことがめちゃくちゃ嫌い。これは村上春樹に対する何かというより、つもりつもった「なんで?」の私怨のほうが強い気がする。基本的にあまり恋愛ものが好きではないが、そのとき勧められていたのが村上春樹のそのへんのアレ(もうぼんやりしている)だったからかもしれない。風の歌を聴け、とかは楽しく読んだし、ふつうに好きだ。

 でも、ほんとうに、まあ人にものを勧めるというのがデリケートな行為だとしても、ちょっと村上春樹を恨みすぎて生きてきてしまったな。今は、今はほら、なんとなく気を遣う目上の人とか、そのような人に本を勧められることもなくなったし、なんとなく別の好みの本の話にすることができる。

 今だから言える、ごめんな、村上春樹。ごめんな、なんか、いろんな人たち。でも、いまだにサリンジャーは野崎訳で読みます。

わりといつも悲しい話をする

 なんだかいろんなことが悲しかったので、

買ったエッセイを読み終わった。精神科医で教授でハーバード大学に留学して博士号を持っていて「オンナ」で、エラソーなプロフィールだな〜みたいなことを自分でも思うというようなことをおっしゃっていて、面白い。「オンナ」で、とつけたことも、「エラソー」と思われる一要素が「オンナ」で、と感じられる場面もあったのかもしれないし、ふんわりとした客観で付け足す要素として「オンナ」で、というのはまあそうだろうな〜と思ってしまって、イヤだな。

 傷を愛せるか、というのが、「傷の存在を認めて」「ケアをし」「なかったことにしないでおけるか」という話なんだと、言葉がやや異なるがそのようなことを、たぶん言っていて、「傷を認める」という段階は案外難しいんだな、ということをわたしの最近のことを思い出して、思っている。

 この本が、医者としての顔だけで書かれていたら読めなかったかもしれないけれど、そういうわけではなかったので、楽しく読みました。(ただ、死についての考えが途中含まれてきて、そういう面で弱ってしまうときには読まないほうがいいようにも思いました)

 

 ここ数年、「ああいうことをされるのがイヤだったな(それをガマンしていたな)」というところから、何か、自分のソトに言語化できるものがはじまった気がしていて、そのあと「ガマンしているのにどうして」とか「イヤだって言っている(やめて欲しい)のにどうして」が言葉になってきて、そういうことが「わたしが相手にうまく伝えられなかったから」「みんなが平気なことでわたしが過敏にイヤな気持ちになっているだけなのかも?」みたいな自責として、わりと深いところにあることに気がついて、という感じで、「気がついていく」をやっている気がする。

 あと、「イヤだって言っているのにやめて貰えない。こんなことたいしたことないよって言われる。なんなら笑われる。コミュニケーションだよ、とか言われたりする」こととかが、ほんとうにイヤで、これは過去に言われた話ではあるんだけど、今もなんだか「ええ、そんなことで!」と言われることが怖くて、言語化ができないというような、ひっかかりになっているような気もする。

 

 ただもう大人なので、なんとかする方法はあるはずで、そのあたりのこととして、「イヤなことをされてイヤな思いをしたんだなあ」ということを思っている。わたしって、実はけっこうずっと気にしているんだよね、わたしは気にしてたのかあ、まあぼんやりと、そんな気はしていたけど、ひとりでそういうことを考えたり、内側のほうに責める声があるなってことが当たり前になっていると、なかなか難しいよねえ、なんてことを思ったりする。

 なんだか実家にいると落ち着かず、それは過去あんまり安全な場所として機能していなかったってことなんじゃないか、子どもの教育には安全基地って言葉があるよね、というようなことを人と笑って喋ったが、こっちとしては笑い事じゃねえ〜。

 

 「わたしたちは無痛恋愛がしたい」という漫画があり、たまに読むのだけど、

comic-days.com

 

 この回(18話)のなかに「聞くよって顔をした相手に喋って大丈夫だったことがないから上澄のところだけ話そう〜」というところがあり、そこでは止まれずにもっと喋りはじめてしまう、というシーンがあるのだけど、このキャラクターはすごく強く生きようとしている人で、でも、心にひっかかりはずっと持っていて、喋り出してしまったのも気が弱くなっていたからなんだけど、相手はしっかり言葉を受け止めてくれて、いい方向のコミュニケーションになっていて、よかった。

 油断した言葉というのは、相手を選んでいないとか、言いたいことだけで止まれないとか、脆い部分の表出だし、コントロールしていないコミュニケーションで傷つくことはままあるのだけど、「上手くやったから」「上手く人を選んだから」「上手く言葉を選んだから」ではなくて、自分に近い関係の人に単に脆いところを見せて相手にケアされたという、ちょっと危なっかしいコミュニケーションが成功していて、よかったなと思う。

 あと、脆いところをケアされたという体験は得難いことなんだけど、そして、たぶん人間関係ってそういうちょっとしたケアをし合うことができるかどうかってことなんじゃないかと思うんだけど、脆いところを見せないように生きようとするっていうのも、それはそれでいいんだな〜と思えたところがいいな。うずらちゃんは、強くてかわいい。

 自分の弱いところを、ちょっとした疲れとかイヤなことをシェアして、お互いになんとなくケアしあう、たとえば単にいっしょにコーヒー一杯分の時間を共有するとか、積極的な外側に向けた言葉はそのとき必ずしもいらなかったりする、そういう関係っていうのが「ちょうどよさ」だし「(お互いの)ケア」なんじゃないかなと思うところがあって、弱いところを見せなくてもいいときはいいんだろうし、それでやっていけるならそれが間違っているとかではない。ちょうどよいところに自分がいられるならいいんだな、ということを思ってました。

 

 ブロッコリーのくたくたというメニューがサイゼリヤにあって、くたくたの野菜が好きなので再現レシピを見たのだけど、ちょっとにんにくが苦手なので悩んでいる。最近は、塩で炒めてしなしなの千切りキャベツが好き。朝、お腹がめちゃくちゃ空くんだけど、ホルモンバランスというやつのような気がする。

 

 

 読みたかったのでベッドサイドに積むこととしたが、慌てて読んでいる本が複数あるのでしばらく読めない気がする。

 

 それらの本と並行して読みかけている小説はこっちなのだけれど、すでにちょっとしたざわつきが生じているので、一気にいけるかしばらく寝かせるか微妙です。

 

 今回、寝る前にちょっと書いて寝る前にちょっと書いて、をしたら三日くらいかかったな。

はくもくれん

 

 地元は白木蓮が咲く季節になっており、春になったなと思う。三月になると咲いて、白木蓮には人がフラフラと近づいていく。花びらが大ぶりで白く、目を引くからなのかもしれない。散歩中にわたしもフラフラと白木蓮の花に近づいて、垣根の向こうの家の人と目があってしまって、気まずく謝った。花が咲いているからフラフラとやってくる人間のことを、あんまり好きになれないなとわたしも思う。スウェットを着て、片手にリードを持ち、カバンを斜めにかけた人間は、どう考えても背景に「通りかかり」のストーリーがあるな、ということも思う。単に時間があったのかもしれないが、家の人が「掃いても掃いても終わらなくて困る花だ」ということを喋る。「午前に一回、午後に一回掃いてまだこんなに散らかる」と言うので、きちんとした人だなと思う。

 白木蓮は(白木蓮だとわたしが思ってきた花が実は白木蓮ではない可能性はあります)、花びらが大きくて、白くて、花びらだけがボトボトと落ちる。近所によく咲いていて、季節に外を出るたびに見かける。わたしの指よりは長さのある大ぶりの花びらだけ、先に落ちていく。花びらなので、風に飛び、歩道の脇にもよく溜まる。白い花びらなので、褪色していくのがよくわかる。端からだんだん茶色く変色していく。白いままの花びらと、茶色く縮こまった花びらが、同じ花だということがよくわかる。ぼたぼたと落ちて、庭に溜まるのは嫌だろうなあと思う。

 わたしは、花がだんだん枯れていくのを見るのが好きなので、白木蓮のことが好きなんだと思う。景気のいい大きな花びら、肉厚でしっとりして見える、だんだん茶色に変色していく、めちゃくちゃたくさん落ちる。変化があって楽しいなと思う。桜もきれいだけど、なにぶん花びらが小さい。大きいほうが楽しいと思う。そんなことは、近所の、困っている、一日に何度も掃き掃除をするきちんとした、庭を見つめる習慣がある人、に伝えても困るだろうことなので、「大変ですねえ」というただの相槌を打ってしまった。人と会話するとちょっと恥ずかしい。足元に犬がいるがあんまり会話に興味はない様子がある。犬は春になり、食欲があり日向でよく眠りたがる。

 

 依然としてぜんぜん元気がなく、なんとなくGoogleフォトを見返したが、つらいときにもつらいなりに生きていて、わたしもなかなか頑張っているなあと思う。自撮りの習慣はあまりないので、犬を抱えていたり、友人が撮ってくれていたりする。なんだかめちゃくちゃ大変だった記憶がある時期に、ニコニコしていることもあるし、美容院の帰りらしいが死んだ目をしていることもある。まだ子どもだなと思う自分の写真もあるが、わたしは子どもの頃から人とうまく喋れないし、美容院がほんとうに苦手で、「成人式があるから髪は伸ばしておいたほうがいい」という美容師さんの言葉を遮って、「でもどうしても切りたいんです」が言えなくて、すごくかなしかったことがある。恨みは成人式に向かってしまったが、「切りたくて……」が叶えられなかった無力感のほうが主題なんだろうと思う。コケシみたいなショートカットでニコニコしている写真があるので、切りたかったけど切れなかった無念と「切りたいと思った時に髪を切ることができるのだ!」という晴れやかさを感じる。美容師さんの、言いたいこともわかる。こんな無念と悔しさと「お金を払っているのに!? 切ってくれない!? そんなに似合わないんですか……?」という自己の…尊厳の…葛藤の…話になっていると思わないだろうし、わたしはやっぱり成人式と聞くと嫌な顔をするし、美容師さんはどうにか、どうにか髪を切って欲しいと思う。どうしても切れないときは客を帰して欲しい。

 わあ、髪は、どうにか、どうにか言ったら切って欲しい。無茶を言う客だな、みたいなことは言うかもしれない。そのあと、わたしのこころの無念のために、髪の毛を半分くらい刈り上げたりもした。似合うかともかく楽しかったし、いまそのときのことをふんわりしたままGoogleフォトを見ても、写真のわたしがニコニコとしていてよい。あと、単にショートカットが好きだ。いまは、ちょっと、ボブくらいまでは、伸ばしている。髪を短く切ってください、と言ったら切って貰える、ちょっとゴネられることはあるかもしれないが、ということを大人のわたしは知っているので、大丈夫です。

 

 あんまり本を読めていないが、図書館に行って本を借り返して借りて、を繰り返している。

 井戸川射子さんが芥川賞を取ったと聞いて、詩集を先に読んだ。

 女性と家族のことをもの思うので、あんまり得意ではないような気がするが、文章がきれいでいいな。

 現代短歌を何冊かと、エッセイを読んでいて、あんまり小説が読めていないが、文藝春秋芥川賞特集はできるだけ買っているのと、積んでいる本が何冊かあります。