20130505

どっどどどどうどどどうどどどどう

死んでいくのはいつだって「今」。

時の流れがとめどない、ということを自覚して生きていけるひとは少ない。いつだって、ひとは「今日」のことしか見えないし、「今」の一瞬を殺しながら生きている。

 

ひとつきの間になにが起きたのかと言われたら、日常軽微なできごとを消化して時が流れました。子どものころのひとつきって永遠みたいに思えたし、実際ひとつきあれば出来ることはそれなりに多いはずなので、わたしは夏休みの宿題を粛々とこなす良い子のように日々のタスクをこなし、ひとつひとつにはなまるをピッとつけて今日という日を閉じるのでした。明確に変わるためにはきっと、そういうちいさなひとつの出来事がきれいなタワーになるように、計画的に生きたほうがいい。そうわかっていながら、全体像の地図が上手く作れない、完成図を描きあげて先に満足を得ることもできない、そんなわけなんですよね。

 

ある一時からの人生のテーマというものが、「脱却」なんですけど、わたしはわりと「しあわせになりたい」という気持ちがつよいです。「しあわせになりたい。幸福に、つよくなりたい。つよくなれば、幸福になれる」という気持ちがあって、そういうことを常に考えている気がします。そういうことを考え出したのは、だいたいざっくり10代のころなんですけど、いわゆるわたしは繊細な子どもであったのですが、無垢に無邪気に幸福でいられたころがあんまりなかった。そう言うと、「しあわせな記憶をおぼえていられないんだね。つらいことがあったから」って言われたりもするし、まあそういうことでもあるんですけど、根本的に生きづらい子どもであったので、あんまりにも生きづらくて8歳のある日散歩コースにあったビルの屋上で、「病院の屋上から飛び降りたら、わたしも死ねるし、誰かも助かるんじゃないか。臓器を提供」などと車をじっと眺めて過ごしたりしていて、なんとなくずっと「らくになるには死ぬという方法しかないんじゃないか」って思考が染みついてしまっているんですよね。子どものわたしには単純に手段として家族と縁を切る方法がなかったので、そういうことを考えたり、つらいことから逃れるためには死ぬしかない、って子どもだって考えるからいじめでひとが死ぬんだろうなあとも思います。学校って子どもにとって、逃れられない場所だよね。

単純に家の教育というものが、「子どもには元気で明るく生きていてくれればいい。だから、わたしの前で、おまえは怒ってはいけない、悲しい顔を見せてはいけない、不満な顔をしてはいけない。おまえがわたしに怒ったり理屈をこねて不平を言ったとしたら、わたしは理屈も理論もなく何倍の勢いでおまえを怒鳴りつけるよ。だって、わたしは親だから」と、ごく簡単に言えばそういうものだったので、殴られたことはとくにないし教育も受けさせて貰ったけれど、「精神な抑圧」みたいなものがすごくあって、ずっとなにかこうしんどい、泣くことにも怒ることにも喋ることにも罪悪感があるし、なにかいつも作り笑いをしてしまう、負の感情を表現することも自覚することもひどく苦手だ、ということが、「わたしが生きるうえでめちゃくちゃじゃまだ!」ということに薄々気がついてからが大変だったんですよね。「わたしは変わらないといつまでもしんどい!」と思って、つまりは人生のテーマが抑圧からの「脱却」に至ったわけなんです。

 

でも、「家族となかよくすごす」ってことをあきらめきれない、そういう無意識の「こなすべき人生のタスク」を抱えていて、それがやっぱりまた生きていくうえでの負担だったんだろうなあ、とも思います。最近ようやく「あ、家族のことが嫌いだわ」と腑に落ちて、それまですごく苦しかった、つまり、家族はそれなりに善良なひとです。それなりに善良な、わたしにそれなりに金も手間も時間もかけたひと、に対して、「嫌いだな」って思うことってすごく悪いことのような気がするんですよね。でも、いいんだなあ。べつに感情面を否定する必要なんてまったくなかった。わたしは、怒ってよくて、悲しんでよくて、不満に思ってよくて、そういうことを表現してよかった。楽しいこと、やさしい言葉しか、選んじゃいけないわけじゃあなかった。

 

ひとにとっては「あたりまえでしょ」ってことが、ひとにとっては「あたりまえではない」ってことはよくあることです。

 

やっぱりわたしは「しあわせに生きたい」と思うし、じゃあどうしたらいいのかって考えられるだけの頭とか、そういうものがあるから、8歳のあの日のどうしようもなさとはきっとまた違っていて、これからきっとわたしが望むしあわせになれる。痛いって涙を流せることだって、しあわせなわけなんですよね。

 

まあ、しかし、財力はない。

とりあえずの手段として、「勉強の合間にできるかな」と派遣を登録したんですけど、なかなかうまく都合がつかない…。田舎なので派遣先が電車で2時間向こうだったりするんですよね。財力って、わかりやすいこころの余裕だと思うんです。「当面暮らしていく蓄えがある」と思ったら、仕事がいやなひとは転職もしやすい、というか、衣食住が確保できない不安のなかで転職活動なんてできないから、転職活動に踏み切れないひとだって、多いでしょう。わたしも、いや通院費もあるし、蓄えもないし、と思うと、なかなかパッと家は出られないです。明日の保証がないんですもん。ごはんを食べなきゃひとは生きてはゆかれないわ。

 

「今」は殺されていくけれど、死んでいった「今」を踏み台にして「明日」に手が届く。明日の形がすこしでも良いものになるように、「今」を殺しましょうね。