20130505

どっどどどどうどどどうどどどどう

死んでいくのはいつだって「今」。

時の流れがとめどない、ということを自覚して生きていけるひとは少ない。いつだって、ひとは「今日」のことしか見えないし、「今」の一瞬を殺しながら生きている。

 

ひとつきの間になにが起きたのかと言われたら、日常軽微なできごとを消化して時が流れました。子どものころのひとつきって永遠みたいに思えたし、実際ひとつきあれば出来ることはそれなりに多いはずなので、わたしは夏休みの宿題を粛々とこなす良い子のように日々のタスクをこなし、ひとつひとつにはなまるをピッとつけて今日という日を閉じるのでした。明確に変わるためにはきっと、そういうちいさなひとつの出来事がきれいなタワーになるように、計画的に生きたほうがいい。そうわかっていながら、全体像の地図が上手く作れない、完成図を描きあげて先に満足を得ることもできない、そんなわけなんですよね。

 

ある一時からの人生のテーマというものが、「脱却」なんですけど、わたしはわりと「しあわせになりたい」という気持ちがつよいです。「しあわせになりたい。幸福に、つよくなりたい。つよくなれば、幸福になれる」という気持ちがあって、そういうことを常に考えている気がします。そういうことを考え出したのは、だいたいざっくり10代のころなんですけど、いわゆるわたしは繊細な子どもであったのですが、無垢に無邪気に幸福でいられたころがあんまりなかった。そう言うと、「しあわせな記憶をおぼえていられないんだね。つらいことがあったから」って言われたりもするし、まあそういうことでもあるんですけど、根本的に生きづらい子どもであったので、あんまりにも生きづらくて8歳のある日散歩コースにあったビルの屋上で、「病院の屋上から飛び降りたら、わたしも死ねるし、誰かも助かるんじゃないか。臓器を提供」などと車をじっと眺めて過ごしたりしていて、なんとなくずっと「らくになるには死ぬという方法しかないんじゃないか」って思考が染みついてしまっているんですよね。子どものわたしには単純に手段として家族と縁を切る方法がなかったので、そういうことを考えたり、つらいことから逃れるためには死ぬしかない、って子どもだって考えるからいじめでひとが死ぬんだろうなあとも思います。学校って子どもにとって、逃れられない場所だよね。

単純に家の教育というものが、「子どもには元気で明るく生きていてくれればいい。だから、わたしの前で、おまえは怒ってはいけない、悲しい顔を見せてはいけない、不満な顔をしてはいけない。おまえがわたしに怒ったり理屈をこねて不平を言ったとしたら、わたしは理屈も理論もなく何倍の勢いでおまえを怒鳴りつけるよ。だって、わたしは親だから」と、ごく簡単に言えばそういうものだったので、殴られたことはとくにないし教育も受けさせて貰ったけれど、「精神な抑圧」みたいなものがすごくあって、ずっとなにかこうしんどい、泣くことにも怒ることにも喋ることにも罪悪感があるし、なにかいつも作り笑いをしてしまう、負の感情を表現することも自覚することもひどく苦手だ、ということが、「わたしが生きるうえでめちゃくちゃじゃまだ!」ということに薄々気がついてからが大変だったんですよね。「わたしは変わらないといつまでもしんどい!」と思って、つまりは人生のテーマが抑圧からの「脱却」に至ったわけなんです。

 

でも、「家族となかよくすごす」ってことをあきらめきれない、そういう無意識の「こなすべき人生のタスク」を抱えていて、それがやっぱりまた生きていくうえでの負担だったんだろうなあ、とも思います。最近ようやく「あ、家族のことが嫌いだわ」と腑に落ちて、それまですごく苦しかった、つまり、家族はそれなりに善良なひとです。それなりに善良な、わたしにそれなりに金も手間も時間もかけたひと、に対して、「嫌いだな」って思うことってすごく悪いことのような気がするんですよね。でも、いいんだなあ。べつに感情面を否定する必要なんてまったくなかった。わたしは、怒ってよくて、悲しんでよくて、不満に思ってよくて、そういうことを表現してよかった。楽しいこと、やさしい言葉しか、選んじゃいけないわけじゃあなかった。

 

ひとにとっては「あたりまえでしょ」ってことが、ひとにとっては「あたりまえではない」ってことはよくあることです。

 

やっぱりわたしは「しあわせに生きたい」と思うし、じゃあどうしたらいいのかって考えられるだけの頭とか、そういうものがあるから、8歳のあの日のどうしようもなさとはきっとまた違っていて、これからきっとわたしが望むしあわせになれる。痛いって涙を流せることだって、しあわせなわけなんですよね。

 

まあ、しかし、財力はない。

とりあえずの手段として、「勉強の合間にできるかな」と派遣を登録したんですけど、なかなかうまく都合がつかない…。田舎なので派遣先が電車で2時間向こうだったりするんですよね。財力って、わかりやすいこころの余裕だと思うんです。「当面暮らしていく蓄えがある」と思ったら、仕事がいやなひとは転職もしやすい、というか、衣食住が確保できない不安のなかで転職活動なんてできないから、転職活動に踏み切れないひとだって、多いでしょう。わたしも、いや通院費もあるし、蓄えもないし、と思うと、なかなかパッと家は出られないです。明日の保証がないんですもん。ごはんを食べなきゃひとは生きてはゆかれないわ。

 

「今」は殺されていくけれど、死んでいった「今」を踏み台にして「明日」に手が届く。明日の形がすこしでも良いものになるように、「今」を殺しましょうね。

人生ってやつは。

世の中にはありとあらゆる選択があって、そのなかで誰しもがなにかを捨ててなにかを選んでいきている。

 

 

そんなことを思うわけなんですが、かなしいときつらいとき、なんだかそういったものが絡んでしまうときなどは、ありとあらゆる選択肢のなかから選んだひとつが、とてもおろかに思えてくるわけでもあるんです。わたしは失敗したのではないか。あたりまえなんですけど、そういった人生の選択にはっきりきっぱりとわかる「失敗と成功のわかれめ」なんてものは存在しなくて、実際あとから失敗だったなあってわかるときっていうのは、きれめを指しているのではなく漠然としたある行為から広がる範囲を指していることが多いんですよね。わかりやすく、「まずいひとと結婚してしまった」ってことだって、じゃあ失敗はどの選択かといわれたらはっきりしないじゃないですか。結婚したこと、つきあいはじめたこと、知り合いになったこと、出会ったこと、あのとき飲み会に参加したこと、のどこかなんてはっきりしないから、漠然と範囲で失敗したなあって思うわけです。つまり、ある時点の不幸が「この選択のミスだよ」ってわかることなんてないのに、そういうぼうっとしたことに関してこれまたぼうっと、「わたしはなにかを失敗したんじゃないのか」って思うのは、答えのでない不穏な悩みにすぎないんですよね。

つまりは、わたしは過去の選択をひとつひとつ思いかえしてしまって、どこかが間違っていたんじゃないか、だっていまわたしはこんなにつらいんだもの、なんてことを考えています。つくづく不健全である。

 

 

専業主婦生活がおもいのほか続いたんですが、家人の退院などもありまして負担はかなり減りました。掃除と料理あたりは、日々のことですが続いていて、まあそれは適宜手を抜きつつということで周囲も納得してもらっているので、量的な負担としてはぼちぼちという具合です。ただ、それも、なんだか、心理的な負担はガクンときてしまいました。のんきな専業主婦~とはいかなかったので、増えるばかりのやることやることや、自分も年をとっていくのに今後の人生や職についての悩み、そういったことが積まれていたところ、すこし余裕ができたら崩れおちるようにダメですね。なんだかしんどい。どうしようもなくしんどい。もともと家人と折合いがわるく、どうにも家にいるとしんどい、家族の人格になにか問題があるわけではないのだけれど、いっしょにいるのがどうにもだめだ。そんな事情があるのですが、ここにきての主婦生活を経てしまって、がんばる気力がごっそり抜けてしまったのでした。日々がしんどい。めそり。

 

 

そもそも「家がしんどいならさっさと家をでたらいい」という問題でもあったので、やはりここで冒頭に戻るという次第なんです。「家がしんどいひとはさっさと家をでるじゃないですか」いや、そのとおりですよね。そこで選択肢の問題がふと浮上して、わたしはどこでどう選択をしたらよかったのか、これからどう選択をしていけばいいんだろうか、なんてことになります。やはり、わたしはどこかしらの段階で「選択を失敗した」のかもしれない。そこから広範囲でしんどくなってしまって、いまに至るのかもしれない。家がしんどいひとはわたしだけではないし、そういうひとは家をでるべきだとわたしも思います。

 

 

専業主婦をしていて、そのころって職がなかったんですけど、そこから(身内に)借金などもしつつ、実はいま資格を取ろうとしています。まあ、つまり、ちょっと予備校に行くのにお金を貸してくれないか、というレベルでお金がなくて、ぽんと家をでるわけにもいかず、わりと難関資格に挑もうとしているので、ぽんととりあえず家を出るためのバイトなどを詰め込むわけにもいかず、予備校生をしながら家事をしつつ、しんどいしんどいと泣いています。泣くのは比喩なんですけど、つらい。もう溜まったなにかがきているのか、ただただひたすらにしんどい。あんまり大丈夫ではない。こう、予備校に通うお金をかきあつめたら、頭金くらい稼げたし、余裕ができるまで働いていこう、資格はひとり暮らしが叶ったら時期を見てとろう、とか、まあ、選択肢としてはあったようにも思います。でも、「予備校にいこう」ってタイミングってなかなか訪れないし、そのチャンスに乗りたい気持ちがあったんですよね。資格をとれたら、予備校情報での就職事情は明るかったし、まあ家もでられるだろう、そういう過程もありでしょう、って思ってやりはじめたんですけど、いや、おもいのほか、おもいのほか。家にいるのってすごくしんどいなあ、って思ってはいたんですけど、職もなく(つまり日常を家で過ごして)、家事のことも考えつつ、それなりにしんどい勉強ノルマがある、ってきたら、もうHPやMPが2くらいだから自力でホイミも唱えられない、みたいなことになってしまいました。気晴らしをするのも体力がいります。遊びにいく元気もない。やるべきことができないことが、ずんずんと溜まっていって、あ、ああー。

 

 

だから思うことって、「むりやりでも家をでたらよかったんだろうか」ってことで、いやほんとうにそれにつきてしまうというか、ね、しかも、そう若くもないんですよ。アラサーなんですよ。うつが判明してから誤魔化し誤魔化しやってきたアラサー販売員(元)が、「欲しい資格と資格をとったあとの生活」と「場つなぎの仕事とぎりぎりの生活」を天秤にかけて、「資格をとって働きたい!!」ってほうに傾いたわけなんですけど、もっといい選択があったのかなあ。アラサー販売員(元)なので、接客販売の経験しかなくそれって事務職にはいきないし、わたしは資格をとることが夢だったんです。そこはぶれずに夢なんです。でも、夢とかすきなことだからですべての困難がとりはらわれるわけではないんですよね。目標をあきらめる気はない。でも、が、がんばれない……。

 

 

ど、どうしたらいいんだ~~?

というあたりで今日はおわります。

ど、どうしたらいいんだ~~?

「ひえっ」

光陰は矢のように過ぎゆくものだと、誰も彼もが知っているように、またたきをしていたら気がついたら4月も中盤を過ぎようとしていたのだった。

 

最近は、ええと、専業主婦になりました(語弊がある)。

いえ、転職をこころみる気はあるんですけど、実質いまの仕事は専業主婦のような感じでして、朝に洗濯をするところからはじまって食事のしたくだの掃除だのひとしきり働いて、夜になってようやくひと息ついてみたいな生活をしています。別にわるいことをしているわけではないし、正直老人の多い実家においてウッカリ手を出したら手を離すのが怖くなったという事情もあり、朝ねぐせを直すのも横着してとりあえず洗濯機のスイッチをいれているんですよね。わるいことではない、たしかに。でも、新鮮な風が欲しいところではあるよなあ、家庭に縫い止められてもなあ、なんて思いつつ今日はうすぼんやりと曇っているので、乾燥機を回すかもしれないんです。日々というのはくりかえしなので、いやはや、いくら掃除してもいくら料理をしても、いやはや、終わりは見えない。

よしあしではない問題なんだけれども、少なくともわるいことではない、という点に着目して生きてます。

「家事をする」ということははじめての体験でもないんですけど、専業状態で家事をするというのははじめての体験なので、まだそんなに慣れてもいないし「突発的に用事が増える」という点において、他の職種とそんなにかわるものでもないような気がします。休憩時間は不定期ですが、結局ものごとを逆算して都合のいい時間はあるので、実質「このくらいの時間」程度は決まっていて、家事労働の性質上基本的に屋内勤務ばかりかつそれなりに屋内に拘束されます。休憩時間をはかってくれないぶん、隙間時間にちいさい労働をいれがちになるので、そこは個人の裁量によると思います。日々の固定の家事労働に加えて、スペシャルケア(水垢、油汚れ、その他の時間のかかるお掃除のたぐいや大物のお洗濯など)に、老人がいるので送迎などの臨時労働アリ。

簡単にいえば、「専業主婦」はばかにはできないです。キリもない。「家事は24時間労働」というのは、ほんとうでした。作ろうと思わないと休憩時間がない、というのも大きいですね。あと、「他人のお世話をする」ことのむつかしさ、というか、もう単純にしんどい。

この業務内容でお給料は(ほぼ)でない、っていうのがいちばんのポイントですよね。結構時給高めでもいいお仕事はしている気はすんですけども。

曖昧のやさしさ、そしてtwitterログ

曖昧のやさしさに誤魔化して、やんわりと繭にくるんだblogを書こう、という地味なこころみは、書けるものごとの範囲があまりにも限定されるのでやめようって、あっさりと蹴散らしていくことにしました。

 

そんな前置きをおいたうえで、twitterのログをぺたぺた貼っていきます。

 

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「ですます調」を意識した結果なんとなくまろやかになった文面をキープしようとこころみることがすでにある種の「浪費」であることに気がついたので、おとなしく書きやすさを重視してブログを書こうな。

 

ある種の「浪費」くせがわたしにはあるように思っていて、それをできるかぎりという消極的でエネルギーの少ないラインで、「ポジティブな浪費」に変えてゆきたいわけで、

 

ものすごく簡単にいえば、今日の夕方以降の脳内討論のテーマは「インターネットとはなにか。ラインとtwitterの共通項は、人との距離感を見失わせたことにあるのではないか」です。

 

わたしは相応にラインを使うけれども、わりあいと苦手意識のようなものがある。たとえば、極端な話だけれども、ラインというものがあることによって、「おはよう」も「おやすみ」も届く範囲が異様なほどに広がってしまったよね、というあたりなんだよね。「その場にいない人」に言葉を振るってこと、

 

もちろんラインがなくたって、携帯がある時代ならメールでだって電話でだってできていたし、ここ何年もの期間でゆるやかに進んできた変化だというのはわかるんだけれど、それにしたって、「ラインは遠くの人を隣にいる人のように錯覚させる」ツールのように感じている。

 

11時半にラインが入って、16時に「なあに?」って返信をしたら、「いや、あの時はランチでもどうかなって思って」って返事が返ってくる。距離としては、学生時代にふたつ隣の席の知人に声をかける、くらいの軽さだなあと思う。(ちなみに、これは物理的に距離もあった例なので不適切なんだけども)

 

いいとかわるいとかではなく、「わたしが立っている場所はどこだ!?」と思うときがわりとある。わたしが職場にいようと京都に観光にでかけていようと、まあ、こういう連絡はかわりなく届くでしょう。「いま、ひま?」ってやつだ。

 

twitterも、他人との距離感が、ほんとうはものすごくむつかしいツールなんだけれど、感覚的に使えてしまうから、みんななんとなく使ってしまっている。でも、冷静に考えて他人から突然「おはよう」とか「それってさあ」って、話しかけられる状態はめちゃくちゃ怖くはない?

 

自分だって、twitterを見ていて、オッと思うつぶやきを見たら、公式RTをして「これってさあ」くらい、簡単にやってしまうしやれてしまう。でも、多くの日本人は、「はじめまして」からはじまらない交流になれていないんじゃないかな、と思えてしまう。いや、飲み屋で盛り上がるとかはべつね?

 

前にtwitter上で「おはようとかおやすみとか言ってくれる人は、絡みに行きやすい。そういうつぶやきがうれしい」というのがあって、「おお、そういう捉えかたで、そういう使いかたを、この人はしているのか」ということに、なにかやたらとおどろいた記憶がある。

 

「おはよう」とか「おやすみ」なんて、それこそよほど親しい間柄じゃないと、なかなか通じ合えない挨拶だと、わたしは思うんだけど、そういう垣根を「インターネット」がガツンガツンと壊しているのだなって、かさねて、いいとかわるいとかではなく、ちょっとした文化の変容というか、

 

「インターネットは距離というものを壊すサービス」なんだなって、いちおうインターネットネイティヴ時代(ぎりぎり?)に生まれていて、最近ようやくまざまざと実感している。これは、たしかに、ある世代の、ある種の人たち、にはわからない次元のものだと思う。わたしもわからない。

 

(@n1c6c8)

 

***

 

わたしは結構いろんな意味でおたくなので、twitterのアカウントはじつはひとつじゃないんですけど、そうやってつかっていくうえで、なんとなくぼんやりと思った、それでいてアカウントすべてに共通することというのが、「距離感の喪失」なんじゃないかなって考えました。

アカウントによって結構カラーがちがって、あるアカウントは若い女の子ばっかりフォローしていたら、「相互でおねがいします」とか「ブロックからのブロック解除でおわかれしてください」とかいう言葉を、ちらほらと目にしたりもしていて、なんだかこれもまたふしぎな文化だなって思います。そのアカウントで見かけたのが、上述の「おはようとかおやすみがうれしい」です。なんだか、それ自体はわるいことではないと思うし、「挨拶をすると気持ちがいいよね」っていうのは、耳障りがよいのだけれども、その「おはよう」「おやすみ」は誰にあてたものなんだろうなあって、栓のないことを考えます。

言葉には宛先があると、わたしは思っているし、じゃあこのblogの言葉だって「誰かはわからないが日本語が読めるであろう誰か」に向けて曖昧ながらも焦点をあわせていて、twitterでいうところの「おはよう」「おやすみ」って、でも、じゃあそれをたまたま見た通りがかりのひとに、「おはよう」「いい夢をね」なんて返されることを想定していないものだと思うんですよね。じゃあ、自分をフォローしてくれる人に向けた挨拶なのかというと、なんだろう、blogにおける購読者でもない「フォロワー」ってなんなんだろうなって思っちゃうところがあって、それってぜったいに友だちって呼べるものじゃないんですけど、認識の上では身内の側じゃないかなって思うんです。そういう曖昧な距離感は、固有性があると思うし、固有性のないものなんてほんとうはないんだけど、ちょっと異質さが際立っているから、最初からそれにひたっていない人には、ちょっとびっくりする文化だなってことがいいたかったんです。

「おはよう」「おやすみ」が家族や恋人以外にとどく世界に、いまはなっていて、それが「あたりまえ」になっていることは、ぜんぜんいいとかわるいとか、そういう話をする問題ではないわけなんです。ただ、時代がそうやって変化してきていって、さあ電話ができたとか、さあ携帯ができたとか、そういう流れでラインとかtwitterとかフェイスブックとか、そうこういうblogとかだって、誕生してきていって、また流れて生まれてどこかへ向かっていく、流れのとりとめのなさととどこおりのなさが、ときどき単純にひとをびっくりさせるね。

極端な話、「インターネットが世界に繋がっているって、外国とのやりとりがらくになるよって話じゃなくて、隣町の家のあのこと自分の部屋でお喋りできるってことだったんだあ」ってことに、いまさらおどろいたよってお話なんだけれども、twitterでつぶやいたときとは時間が経ってしまっているので、すこし論点がずれてしまったかもしれず、ちょっと補足とか修正とかいれるかもしれません。

 

で、わたしのメインのtwitterアカウントは「@n1c6c8」なので、なんとなく興味があったら、フォローしてくれるとこっそり覗きにいきます。

 

あ、いまさらなんですけど、新年あけましておめでとうございます。

今年もよろしくおねがいします。

ダークレッドのネイル

年の暮れです。年末年始にかこつけて飲んだくれて過ごそうと思っていたのに、風邪を引いてこうしてキーボードを叩いています。打ち途中のメール、書きかけの文章、せまりくる締切、そんなものを感じつつ、どっとはらい。温暖といわれる土地に住んでいて、雪など降る気配もなく、結局厚手のコートを出さないまま年があけようとしています。さすがにそろそろ、と何度言ったことでしょう。でも、さすがにそろそろコートは出しておかないといけないでしょうね。染み入るつめたさを感じる前に、背筋を震わせる悪寒を感じてしまい、薄ぼこりの舞うおしいれは閉じられたままでいます。

 

なんとなくTwitterやなんとなくTumblrは、いまだに脱せられていないので、年が開ける前にバチリと削除をしようかと考えています。なにごともキリとか、踏み込みのようなものが必要だな、ということは感じていて、大掃除のようなものだと思えば、アカウントの整理とか統合とかもわるくはないかもしれないです。しかし、「このアカウントでやりとりが終わっていない」などのわたしだけではいかんともしがたい事情を鑑みれば、年の瀬にすべてを終えられるとも言い切れないものがあるので、そこははじめの一歩という観点を大事にしていきたいと思います。

 

風邪を引いてむしゃくしゃしていたので、処方箋を渡したその手でドラックストアで買いものをしました。プリプラコスメを2000円以内でみっつ。帰ってきて爪をダークレッドに染めかえて、ほんのわずかな自己満足です。ネイルが自己満足だと誰かにおそわった気がするのですが、じゃあ自己満足じゃないことってなんなんでしょうね。化粧が礼儀だなんて、誰が決めたことなのでしょう。淡いブラウンのグラデーションのアイシャドウが、誰に気づかれなくても誰かに向けた礼儀であるとして、ネイビーのマスカラやゴールドのグリッターは、誰に向けられた非礼だというのかなあと思わなくはないのですが、まあ実際金髪でグリッターギラギラアイズなおねえちゃんに対面したら、「おう、おねえちゃん、ロックだな」って心のなかでくだけた声をかけてしまうかもしれません。外面を整えること、と、自分を着飾ること、はかならずにもイコールではないですね。「こうやって対応して欲しい」という自分の願望がつまるところ、化粧や服装にあらわれるものだとして、ある種の意思表示が増えたと思うと化粧は軽んじられるものではないのでしょう。その「こういう外見をこういう目で見る」、という目そのものが偏見ではないかという視点は持っているにこしたことはないけれども、それはもはや反射にすぎないような気もするのです。疑念を持つ目は、ある種の反射を織り込んで考えないと、空回ってつらい思いをするのかもしれません。でも、ダークレッドのネイルを、ある女の子はきっと「かわいい」と笑ってくれます。

 

世界は窮屈なばかりではない。

年末にもう一度書けたらいいなあと思いつつ。

流れていくので

一年越しに日記を書くことを思いたち、つれづれとキーボードを叩いています。前回の日記が一年前以上昔のものであることを思いつつ、意外とふつうに面白く読み返せるものだなあ、などとぼんやりと読者の目で見たりもしました。季節は冬に足を踏み入れ、しかし、まだ厚手のコートを出してはいません。この週末はさらに温暖になるとか、季節は巡るけれども随分ゆるやかなものだと思ってしまいます。わたしはそんなにかわってはいない気がします。それでも、すこしは変化をしているのだろうとも思います。ときの流れはとどまりはしないし、変化はかくもゆるやかで気づき難いものです。

なんとなくTwitterをしたりなんとなくTumblrをしたり、その他もろもろ。あんまりやりすぎてもわけがわからないので、一元化しようかなあとも考えています。Twitterは一時期結構ハマってしまっていたので、アカウントが複数あって困惑しきりでもあり、複数あるにもかかわらずすみわけができているわけでもない混迷ありきですらあり。身内用のアカウントとしてやっていたはずが、なんとなく気になるひとをフォローしはじめ、知り合い以外のフォローのほうが増えはじめたあたりから、なんだかよくはわからなくなっていますね。ことTwitterやブログに関しては、「知り合いではない漠然と抽象的なだれか」を想定して書きたいときがとても多いような気がします。このブログを知り合いに見られて困るわけではないのだけれど、たとえばフェイスブックのように「知り合いが見ていることを前提とした文章」を書いているわけではなく、たぶんこのブログを知り合いに教えても「知り合いではない漠然と抽象的なだれか」を想定してわたしは文章を書くのだろうと思います。文章を書くのはとても楽しい。空気のいい場所で息を吸っているな、という気分のよさで、埃っぽい路地裏や会社の狭い通路でだってひそめた息はできるけれども、遮蔽物のないひろい中庭でおおきく深呼吸をするのはとても心地がよいよね、という感覚でわたしは文章を書くのだろうと思います。

あかるい近況にしろくらい近況にしろ、なにやらいまは書くのをためらわれます。とくに理由があるわけではないんです。どういう体裁で書けばいいのかよくわからない、という単純なことなのだろうと思うのだけれど、あとは少量の怯懦です。こわがりです。一年を過ぎたけれども、いまのところ恋人も配偶者もいません。でも、おだやかには生きていると思います。いまはとてもなにもできない、有益な存在になんてなりたくない、ただひたすらにゴミみたいに眠っていたい。そんなときだって、わりと多くあります。わたしは価値のない存在だよって思いながら、毛布にくるまって眠ります。目が覚めたら塵になって飛んでいけるわけでもないので、起きたらまずうがいをします。あかるい話もくらい話も、なんにも聞きたくないし、どっちも見果てぬくらいの奥深さで話して欲しいです。遠い話だなって思って、笑ってうなずきます。一年のあいだに愛犬が随分と年を取った気がしています。ひょこひょこと歩くうしろ姿を眺めていると、ときはやっぱりすぎている、とあたりまえのことがかろやかに耳元に囁かれます。

細く長く

12月に足を踏み入れ、健康になったかといえば、そうでもない自分がいます。ブログを書こうかなあ、とすら頭に浮かばない日々でした。「ブログを細く長く続けてみるのもよいものだよ」と友人という名のブログの先輩は語ってくださって、ようやく思い至るわたしです。そう、細く長くを目的としたブログだったのでした。(大部分消したけれども)。

わたしがブログと言ってはじめに思い浮かぶのが、もう10年以上前の、おそらくタグとかビルダーで作られていた「日記」です。よく見ていたはてなではなかった気がするなあ。でも、コメント機能はついていた気がします。「すずとこんぺいとう」さんという、ことりフォントという手書きフォントを配布していたサイトの日記です。張り付くように更新を気にしていたし、ある人生の転機に踏み出そうと決意したのも、この日記があったからだなあ、と思うとわたしの人生のなかで重要なピースだったのだと思います。いまは何をしていらっしゃるのだろうか。すずとこんぺいとうさんが閉鎖されるときに、日記だけ別のところでやるのでメールをくれた方にはお知らせをします、という旨のことを書かれていて、勇気のなかったわたしはメールを送れないまま今に至っています。あのころのオチビさんもきっともう小学生になっていて、旧友をおもいかえすようなあたたかさで、あのひとはなにをしているだろう、とおもったりします。情報があるかた、ひろいネットのなかではいらっしゃるのかしら。元気でいらっしゃればいいなあ。

なんだか、ブログというとそれなりに面白いものを書こうとして、でもユーモアのセンスもないわたしは詰まってしまうので、これからは気負わずに書きたいなあと思います。愚痴愚痴もするかもしれない。どうだろうか。わたしはわたしという軸にいまとても自信がない状況にあるのだとおもいます。それだから、すぐいろんなことがぶれてしまう。ぶれることも面白いとおもうのだけれども、ぶれてる自分からしたらなんともいえないですね。流されるのは苦しく、息がつまります。エンタメ、な感じの書き口をしたいとおもったり、それがいろいろな意味でできない自分を思ったりします。最近不安であたまがパンパンで、とくに、考えを煮詰めるという作業が苦手になっているのでしょう。清涼感が欲しい。あたまに清涼感が、スッキリとした感覚が。とはいえ、いまのわたしには空に手を伸ばすしかできないので、まずは深呼吸からはじめたいとおもいます。