20130505

どっどどどどうどどどうどどどどう

SNSが読めなくなった

表題から入ると、SNSが読めなくなった。具体的なしぼりかたをすると、Twitterが読めなくなった。

 

スマホアプリのなかでは一番使用頻度が高いと思っていたので、びっくりしている。わたしのアプリのなかでは、世間で話題のスマホ依存の原因の筆頭である。ちなみに次点はGoogleChromeだと思う。(余談につきまとめるが、慣れているという一点で使い心地がいい。PCのSafariをアクティブにするとしたら、iPhoneでもSafariを使ったほうが機能的に楽そうではある)

 

Twitterがしんどいな、という時期がないわけではなかった。ほぼサービス開始初期から使っているし、交流する相手が徐々に変わったり、サービス自体が変化していったり、帰宅して何かしながらぼんやりPCで眺めるものからさまざまな場所でスマホから眺めるものになった。利用者が増えたということもある。ひと言にすれば、環境は変わっていく。そのあたりの時期に、自分の環境も変わる。使いかたがズレてくる。落ち着かない。そういう波のなかで消えた交流もある。

 

なんだかそういう、「あーむりむり」という感じなのかと言われるとよくわからない。しんどさ、つらさ。過去のそういうものはもうちょっとわかりやすくネガティブなキズやトゲをイメージさせる。

 

今回は、「わたしは誰に向かってしゃべっているんだ?」という気持ちだった。誰に向かって。

 

ある問題についてどうしても喋りたくなったとき、Twitter(ないしSNS)のコミュニティ(輪)のなかで適さないなと思うことはある。このネットでも、ネットなのに、感じられる「枠」みたいなもののことがなんとなく気になって、もうずいぶん昔「天気の写真そして日記」みたいな記事をFacebookにあげたことがある。わたしですら感じる、強い場違い感がある。コミュニケーションも広がりもない、朝の空、気分、コーヒー。「なんでそういう意味わからんことするかなあ」という点で一部の友人には受けた。場には場にあった内容を話したほうが楽しい、という話が日本的な文化なのかはわからないし、飲み会や集団のノリが苦手だけれども、場にあったものを場で提供するのは楽しい。紅茶がすきな相手に、おいしい紅茶を出そうと考えるのは自然だと思う。その場でコーヒーを出してはいけないわけではないが、わたしが気になる紅茶のメーカーがあり相手が紅茶がすきであると知っていたら、ポッドから提供するのはきっと紅茶だと思う。

 

わたしは、誰に向かって喋っているんだろう。

 

もちろん、Twitterに「知らない人間しかいない」という感覚はない。なんとなく知っている、きっと相手もなんとなく知っている、あなたの話を面白く聴いている、ときどき会話を交えたりする。

 

でも、ここはインターネットで、表現が適切かはわからないが、広く世界に言葉が流れている。閉じていないと思っているし、Twitterもいわゆる鍵をかけたアカウントにする気があまりない。誰でも見られる場所である、という前提を忘れたくないとぼんやりと思っている。140字はあまりに短い。「なにを言っているかわからないな」と思う意見がひとりごととしてリツイートされてきたとき、わたしはその文脈がわからない。質問することも(質問自体が悪ではないとわかっていても不要な関係を作りたくない意味もあって)できない。わたしが誰かに届けたい文章を書いているわけではないが、届く先がわからない。イメージがない。自分の言葉がポカンと宙に浮いているような、おさまりの悪さを感じる。ときどきそれが会話につながったとして、これは、この言葉はそもそもなんなんだろう。

 

なにかよくわからなくなって、急に読めなくなってしまった。おさまりがわるい。心が弱っているのかもしれない。わたしはむかし、ショートメッセージが苦手だったなと思い返す。対面にいないひと、声の聞こえないひとの言葉が苦手で、PCのメールと文通は大丈夫だった。(会話という意味での)言葉と文章っていうものが、もしかしたらわたしのなかで別れていて、Twitterというものがフワフワしているのかもしれない。

 

考えすぎる、というのはニュアンスが悪癖を指すものだけれど、考えすぎる。疲れていると、なにもかも言語化しようとする。目の前にない他人のことまで考えてしまう。なにかこの不調が去ったら、あらゆることをほがらかに語り出すのかもしれない。とてもおしゃべりがしたかったので、ブログを書いた。

 

ひとまずシメ