20130505

どっどどどどうどどどうどどどどう

曖昧のやさしさ、そしてtwitterログ

曖昧のやさしさに誤魔化して、やんわりと繭にくるんだblogを書こう、という地味なこころみは、書けるものごとの範囲があまりにも限定されるのでやめようって、あっさりと蹴散らしていくことにしました。

 

そんな前置きをおいたうえで、twitterのログをぺたぺた貼っていきます。

 

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「ですます調」を意識した結果なんとなくまろやかになった文面をキープしようとこころみることがすでにある種の「浪費」であることに気がついたので、おとなしく書きやすさを重視してブログを書こうな。

 

ある種の「浪費」くせがわたしにはあるように思っていて、それをできるかぎりという消極的でエネルギーの少ないラインで、「ポジティブな浪費」に変えてゆきたいわけで、

 

ものすごく簡単にいえば、今日の夕方以降の脳内討論のテーマは「インターネットとはなにか。ラインとtwitterの共通項は、人との距離感を見失わせたことにあるのではないか」です。

 

わたしは相応にラインを使うけれども、わりあいと苦手意識のようなものがある。たとえば、極端な話だけれども、ラインというものがあることによって、「おはよう」も「おやすみ」も届く範囲が異様なほどに広がってしまったよね、というあたりなんだよね。「その場にいない人」に言葉を振るってこと、

 

もちろんラインがなくたって、携帯がある時代ならメールでだって電話でだってできていたし、ここ何年もの期間でゆるやかに進んできた変化だというのはわかるんだけれど、それにしたって、「ラインは遠くの人を隣にいる人のように錯覚させる」ツールのように感じている。

 

11時半にラインが入って、16時に「なあに?」って返信をしたら、「いや、あの時はランチでもどうかなって思って」って返事が返ってくる。距離としては、学生時代にふたつ隣の席の知人に声をかける、くらいの軽さだなあと思う。(ちなみに、これは物理的に距離もあった例なので不適切なんだけども)

 

いいとかわるいとかではなく、「わたしが立っている場所はどこだ!?」と思うときがわりとある。わたしが職場にいようと京都に観光にでかけていようと、まあ、こういう連絡はかわりなく届くでしょう。「いま、ひま?」ってやつだ。

 

twitterも、他人との距離感が、ほんとうはものすごくむつかしいツールなんだけれど、感覚的に使えてしまうから、みんななんとなく使ってしまっている。でも、冷静に考えて他人から突然「おはよう」とか「それってさあ」って、話しかけられる状態はめちゃくちゃ怖くはない?

 

自分だって、twitterを見ていて、オッと思うつぶやきを見たら、公式RTをして「これってさあ」くらい、簡単にやってしまうしやれてしまう。でも、多くの日本人は、「はじめまして」からはじまらない交流になれていないんじゃないかな、と思えてしまう。いや、飲み屋で盛り上がるとかはべつね?

 

前にtwitter上で「おはようとかおやすみとか言ってくれる人は、絡みに行きやすい。そういうつぶやきがうれしい」というのがあって、「おお、そういう捉えかたで、そういう使いかたを、この人はしているのか」ということに、なにかやたらとおどろいた記憶がある。

 

「おはよう」とか「おやすみ」なんて、それこそよほど親しい間柄じゃないと、なかなか通じ合えない挨拶だと、わたしは思うんだけど、そういう垣根を「インターネット」がガツンガツンと壊しているのだなって、かさねて、いいとかわるいとかではなく、ちょっとした文化の変容というか、

 

「インターネットは距離というものを壊すサービス」なんだなって、いちおうインターネットネイティヴ時代(ぎりぎり?)に生まれていて、最近ようやくまざまざと実感している。これは、たしかに、ある世代の、ある種の人たち、にはわからない次元のものだと思う。わたしもわからない。

 

(@n1c6c8)

 

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わたしは結構いろんな意味でおたくなので、twitterのアカウントはじつはひとつじゃないんですけど、そうやってつかっていくうえで、なんとなくぼんやりと思った、それでいてアカウントすべてに共通することというのが、「距離感の喪失」なんじゃないかなって考えました。

アカウントによって結構カラーがちがって、あるアカウントは若い女の子ばっかりフォローしていたら、「相互でおねがいします」とか「ブロックからのブロック解除でおわかれしてください」とかいう言葉を、ちらほらと目にしたりもしていて、なんだかこれもまたふしぎな文化だなって思います。そのアカウントで見かけたのが、上述の「おはようとかおやすみがうれしい」です。なんだか、それ自体はわるいことではないと思うし、「挨拶をすると気持ちがいいよね」っていうのは、耳障りがよいのだけれども、その「おはよう」「おやすみ」は誰にあてたものなんだろうなあって、栓のないことを考えます。

言葉には宛先があると、わたしは思っているし、じゃあこのblogの言葉だって「誰かはわからないが日本語が読めるであろう誰か」に向けて曖昧ながらも焦点をあわせていて、twitterでいうところの「おはよう」「おやすみ」って、でも、じゃあそれをたまたま見た通りがかりのひとに、「おはよう」「いい夢をね」なんて返されることを想定していないものだと思うんですよね。じゃあ、自分をフォローしてくれる人に向けた挨拶なのかというと、なんだろう、blogにおける購読者でもない「フォロワー」ってなんなんだろうなって思っちゃうところがあって、それってぜったいに友だちって呼べるものじゃないんですけど、認識の上では身内の側じゃないかなって思うんです。そういう曖昧な距離感は、固有性があると思うし、固有性のないものなんてほんとうはないんだけど、ちょっと異質さが際立っているから、最初からそれにひたっていない人には、ちょっとびっくりする文化だなってことがいいたかったんです。

「おはよう」「おやすみ」が家族や恋人以外にとどく世界に、いまはなっていて、それが「あたりまえ」になっていることは、ぜんぜんいいとかわるいとか、そういう話をする問題ではないわけなんです。ただ、時代がそうやって変化してきていって、さあ電話ができたとか、さあ携帯ができたとか、そういう流れでラインとかtwitterとかフェイスブックとか、そうこういうblogとかだって、誕生してきていって、また流れて生まれてどこかへ向かっていく、流れのとりとめのなさととどこおりのなさが、ときどき単純にひとをびっくりさせるね。

極端な話、「インターネットが世界に繋がっているって、外国とのやりとりがらくになるよって話じゃなくて、隣町の家のあのこと自分の部屋でお喋りできるってことだったんだあ」ってことに、いまさらおどろいたよってお話なんだけれども、twitterでつぶやいたときとは時間が経ってしまっているので、すこし論点がずれてしまったかもしれず、ちょっと補足とか修正とかいれるかもしれません。

 

で、わたしのメインのtwitterアカウントは「@n1c6c8」なので、なんとなく興味があったら、フォローしてくれるとこっそり覗きにいきます。

 

あ、いまさらなんですけど、新年あけましておめでとうございます。

今年もよろしくおねがいします。