20130505

どっどどどどうどどどうどどどどう

流れていくので

一年越しに日記を書くことを思いたち、つれづれとキーボードを叩いています。前回の日記が一年前以上昔のものであることを思いつつ、意外とふつうに面白く読み返せるものだなあ、などとぼんやりと読者の目で見たりもしました。季節は冬に足を踏み入れ、しかし、まだ厚手のコートを出してはいません。この週末はさらに温暖になるとか、季節は巡るけれども随分ゆるやかなものだと思ってしまいます。わたしはそんなにかわってはいない気がします。それでも、すこしは変化をしているのだろうとも思います。ときの流れはとどまりはしないし、変化はかくもゆるやかで気づき難いものです。

なんとなくTwitterをしたりなんとなくTumblrをしたり、その他もろもろ。あんまりやりすぎてもわけがわからないので、一元化しようかなあとも考えています。Twitterは一時期結構ハマってしまっていたので、アカウントが複数あって困惑しきりでもあり、複数あるにもかかわらずすみわけができているわけでもない混迷ありきですらあり。身内用のアカウントとしてやっていたはずが、なんとなく気になるひとをフォローしはじめ、知り合い以外のフォローのほうが増えはじめたあたりから、なんだかよくはわからなくなっていますね。ことTwitterやブログに関しては、「知り合いではない漠然と抽象的なだれか」を想定して書きたいときがとても多いような気がします。このブログを知り合いに見られて困るわけではないのだけれど、たとえばフェイスブックのように「知り合いが見ていることを前提とした文章」を書いているわけではなく、たぶんこのブログを知り合いに教えても「知り合いではない漠然と抽象的なだれか」を想定してわたしは文章を書くのだろうと思います。文章を書くのはとても楽しい。空気のいい場所で息を吸っているな、という気分のよさで、埃っぽい路地裏や会社の狭い通路でだってひそめた息はできるけれども、遮蔽物のないひろい中庭でおおきく深呼吸をするのはとても心地がよいよね、という感覚でわたしは文章を書くのだろうと思います。

あかるい近況にしろくらい近況にしろ、なにやらいまは書くのをためらわれます。とくに理由があるわけではないんです。どういう体裁で書けばいいのかよくわからない、という単純なことなのだろうと思うのだけれど、あとは少量の怯懦です。こわがりです。一年を過ぎたけれども、いまのところ恋人も配偶者もいません。でも、おだやかには生きていると思います。いまはとてもなにもできない、有益な存在になんてなりたくない、ただひたすらにゴミみたいに眠っていたい。そんなときだって、わりと多くあります。わたしは価値のない存在だよって思いながら、毛布にくるまって眠ります。目が覚めたら塵になって飛んでいけるわけでもないので、起きたらまずうがいをします。あかるい話もくらい話も、なんにも聞きたくないし、どっちも見果てぬくらいの奥深さで話して欲しいです。遠い話だなって思って、笑ってうなずきます。一年のあいだに愛犬が随分と年を取った気がしています。ひょこひょこと歩くうしろ姿を眺めていると、ときはやっぱりすぎている、とあたりまえのことがかろやかに耳元に囁かれます。

細く長く

12月に足を踏み入れ、健康になったかといえば、そうでもない自分がいます。ブログを書こうかなあ、とすら頭に浮かばない日々でした。「ブログを細く長く続けてみるのもよいものだよ」と友人という名のブログの先輩は語ってくださって、ようやく思い至るわたしです。そう、細く長くを目的としたブログだったのでした。(大部分消したけれども)。

わたしがブログと言ってはじめに思い浮かぶのが、もう10年以上前の、おそらくタグとかビルダーで作られていた「日記」です。よく見ていたはてなではなかった気がするなあ。でも、コメント機能はついていた気がします。「すずとこんぺいとう」さんという、ことりフォントという手書きフォントを配布していたサイトの日記です。張り付くように更新を気にしていたし、ある人生の転機に踏み出そうと決意したのも、この日記があったからだなあ、と思うとわたしの人生のなかで重要なピースだったのだと思います。いまは何をしていらっしゃるのだろうか。すずとこんぺいとうさんが閉鎖されるときに、日記だけ別のところでやるのでメールをくれた方にはお知らせをします、という旨のことを書かれていて、勇気のなかったわたしはメールを送れないまま今に至っています。あのころのオチビさんもきっともう小学生になっていて、旧友をおもいかえすようなあたたかさで、あのひとはなにをしているだろう、とおもったりします。情報があるかた、ひろいネットのなかではいらっしゃるのかしら。元気でいらっしゃればいいなあ。

なんだか、ブログというとそれなりに面白いものを書こうとして、でもユーモアのセンスもないわたしは詰まってしまうので、これからは気負わずに書きたいなあと思います。愚痴愚痴もするかもしれない。どうだろうか。わたしはわたしという軸にいまとても自信がない状況にあるのだとおもいます。それだから、すぐいろんなことがぶれてしまう。ぶれることも面白いとおもうのだけれども、ぶれてる自分からしたらなんともいえないですね。流されるのは苦しく、息がつまります。エンタメ、な感じの書き口をしたいとおもったり、それがいろいろな意味でできない自分を思ったりします。最近不安であたまがパンパンで、とくに、考えを煮詰めるという作業が苦手になっているのでしょう。清涼感が欲しい。あたまに清涼感が、スッキリとした感覚が。とはいえ、いまのわたしには空に手を伸ばすしかできないので、まずは深呼吸からはじめたいとおもいます。

雨ざらし

前の日記から随分日が空いて、アアこの頃はまだ前の職場のことのほうが生々しかったのだなァ、と思ったりします。

今の職場にも多少は慣れたのですが、100日以上働いていてまだわからないことも多いです。

 

前回の日記から今回の日記までの間に、じつはもう一度短期の入院をしていて、その時間は決して無駄ではなかったとは思いつつ、ポジティブにも成りきれない自分がいます。

ささやかな時間は考える隙間を与えてくれたし、それに対して誰が責めるわけでもないのだけれど、歯を食いしばるように明るい方を見なければ、やってはいかれないような気持ちにもなります。

過度に自罰的になったり、「〜せねば」と考えたり、白黒をはっきりとつけようとしたり、そういう三つの認知の仕方が人を追い詰めるんだよ。

そういう話を聞いて、いかにもわたしがしそうな思考だなあ、と思います。

「入院なんてまわりに迷惑をかける」とか「はやく元気にならねば」とか「入院して休むことは悪いことなの」とか、概ねわたしは自分に対してチクチクと傷をつけるのが得意で、それは決していい方向に向かうプレッシャーではないのです。

わたしの思考のどれもが、別に間違ったことではない、ということもまたわたしを追い詰めるのかもしれません。

「いいわるい」は必ずしも当てはめる必要がないことだし、見方によっていくらでもかわることであることは、もうわたしもわかっているのです。

他人の話を聞くときに、自分をチクチクと苛めていることがわかったら、いくらでも「あなたは生きているだけでいいんだよ」と言ってあげられるのに、自分のことになったらとんと言うことも出来ません。

それはたぶんわたしがわたしを客観視出来ていないからなのだろうなァ、と思います。

自分を客観視するということのむつかしさを噛み締めています。

なんともはや!

今年はすでに入院と退院をしていて、なんだかもはや一仕事終えたような気持ちがあります。実際一仕事終えた、という意味では終えました。いままで働いていた場所を3月で正式に退職をしたのです。退院してからすこしだけ働いて、そのままお別れになった職場です。未だに少しやらなければならない手続き上のことは残っているのですが、なにやら別れてみたらスッキリもするものだなあとも思いました。

わたしは絶対に根性とかそういった言葉とは無縁で生きよう、と思いつつ根性でしか通せない職場でもありました。いろいろな人に心配をかけて、時に「休みなよ」と声をかけて頂いて、それでもジリジリとへばりつくようにしていたのは、粘着性を持った強迫観念だったのかもしれません。やることに意義がある、は挑戦への足がかりとしていい言葉かもしれないのですが、ただの根性論には素直に頷けないわたしであるのに、なんともはや続いたものです。

それがいいことだったのか。へとへとの身体でボンヤリ思い返して、なんとも言葉につまることなのですが、ただわかるのはわたしには判断力が欠けていたということと、自分の身体とこころの問題を自覚しきれていなかったということです。

あたらしい仕事はもっとゆったりとしているにもかかわらず、息が切れるような倦怠と漠然とした不安にまみれて生きています。生きていける気はしないけれども息はしています。

 

そっと思い立って記事を下書きに戻してみたりなどしてみました。

なんともはやなんともはや。