20130505

どっどどどどうどどどうどどどどう

細く長く

12月に足を踏み入れ、健康になったかといえば、そうでもない自分がいます。ブログを書こうかなあ、とすら頭に浮かばない日々でした。「ブログを細く長く続けてみるのもよいものだよ」と友人という名のブログの先輩は語ってくださって、ようやく思い至るわたしです。そう、細く長くを目的としたブログだったのでした。(大部分消したけれども)。

わたしがブログと言ってはじめに思い浮かぶのが、もう10年以上前の、おそらくタグとかビルダーで作られていた「日記」です。よく見ていたはてなではなかった気がするなあ。でも、コメント機能はついていた気がします。「すずとこんぺいとう」さんという、ことりフォントという手書きフォントを配布していたサイトの日記です。張り付くように更新を気にしていたし、ある人生の転機に踏み出そうと決意したのも、この日記があったからだなあ、と思うとわたしの人生のなかで重要なピースだったのだと思います。いまは何をしていらっしゃるのだろうか。すずとこんぺいとうさんが閉鎖されるときに、日記だけ別のところでやるのでメールをくれた方にはお知らせをします、という旨のことを書かれていて、勇気のなかったわたしはメールを送れないまま今に至っています。あのころのオチビさんもきっともう小学生になっていて、旧友をおもいかえすようなあたたかさで、あのひとはなにをしているだろう、とおもったりします。情報があるかた、ひろいネットのなかではいらっしゃるのかしら。元気でいらっしゃればいいなあ。

なんだか、ブログというとそれなりに面白いものを書こうとして、でもユーモアのセンスもないわたしは詰まってしまうので、これからは気負わずに書きたいなあと思います。愚痴愚痴もするかもしれない。どうだろうか。わたしはわたしという軸にいまとても自信がない状況にあるのだとおもいます。それだから、すぐいろんなことがぶれてしまう。ぶれることも面白いとおもうのだけれども、ぶれてる自分からしたらなんともいえないですね。流されるのは苦しく、息がつまります。エンタメ、な感じの書き口をしたいとおもったり、それがいろいろな意味でできない自分を思ったりします。最近不安であたまがパンパンで、とくに、考えを煮詰めるという作業が苦手になっているのでしょう。清涼感が欲しい。あたまに清涼感が、スッキリとした感覚が。とはいえ、いまのわたしには空に手を伸ばすしかできないので、まずは深呼吸からはじめたいとおもいます。

雨ざらし

前の日記から随分日が空いて、アアこの頃はまだ前の職場のことのほうが生々しかったのだなァ、と思ったりします。

今の職場にも多少は慣れたのですが、100日以上働いていてまだわからないことも多いです。

 

前回の日記から今回の日記までの間に、じつはもう一度短期の入院をしていて、その時間は決して無駄ではなかったとは思いつつ、ポジティブにも成りきれない自分がいます。

ささやかな時間は考える隙間を与えてくれたし、それに対して誰が責めるわけでもないのだけれど、歯を食いしばるように明るい方を見なければ、やってはいかれないような気持ちにもなります。

過度に自罰的になったり、「〜せねば」と考えたり、白黒をはっきりとつけようとしたり、そういう三つの認知の仕方が人を追い詰めるんだよ。

そういう話を聞いて、いかにもわたしがしそうな思考だなあ、と思います。

「入院なんてまわりに迷惑をかける」とか「はやく元気にならねば」とか「入院して休むことは悪いことなの」とか、概ねわたしは自分に対してチクチクと傷をつけるのが得意で、それは決していい方向に向かうプレッシャーではないのです。

わたしの思考のどれもが、別に間違ったことではない、ということもまたわたしを追い詰めるのかもしれません。

「いいわるい」は必ずしも当てはめる必要がないことだし、見方によっていくらでもかわることであることは、もうわたしもわかっているのです。

他人の話を聞くときに、自分をチクチクと苛めていることがわかったら、いくらでも「あなたは生きているだけでいいんだよ」と言ってあげられるのに、自分のことになったらとんと言うことも出来ません。

それはたぶんわたしがわたしを客観視出来ていないからなのだろうなァ、と思います。

自分を客観視するということのむつかしさを噛み締めています。

なんともはや!

今年はすでに入院と退院をしていて、なんだかもはや一仕事終えたような気持ちがあります。実際一仕事終えた、という意味では終えました。いままで働いていた場所を3月で正式に退職をしたのです。退院してからすこしだけ働いて、そのままお別れになった職場です。未だに少しやらなければならない手続き上のことは残っているのですが、なにやら別れてみたらスッキリもするものだなあとも思いました。

わたしは絶対に根性とかそういった言葉とは無縁で生きよう、と思いつつ根性でしか通せない職場でもありました。いろいろな人に心配をかけて、時に「休みなよ」と声をかけて頂いて、それでもジリジリとへばりつくようにしていたのは、粘着性を持った強迫観念だったのかもしれません。やることに意義がある、は挑戦への足がかりとしていい言葉かもしれないのですが、ただの根性論には素直に頷けないわたしであるのに、なんともはや続いたものです。

それがいいことだったのか。へとへとの身体でボンヤリ思い返して、なんとも言葉につまることなのですが、ただわかるのはわたしには判断力が欠けていたということと、自分の身体とこころの問題を自覚しきれていなかったということです。

あたらしい仕事はもっとゆったりとしているにもかかわらず、息が切れるような倦怠と漠然とした不安にまみれて生きています。生きていける気はしないけれども息はしています。

 

そっと思い立って記事を下書きに戻してみたりなどしてみました。

なんともはやなんともはや。