20130505

どっどどどどうどどどうどどどどう

「ひえっ」

光陰は矢のように過ぎゆくものだと、誰も彼もが知っているように、またたきをしていたら気がついたら4月も中盤を過ぎようとしていたのだった。

 

最近は、ええと、専業主婦になりました(語弊がある)。

いえ、転職をこころみる気はあるんですけど、実質いまの仕事は専業主婦のような感じでして、朝に洗濯をするところからはじまって食事のしたくだの掃除だのひとしきり働いて、夜になってようやくひと息ついてみたいな生活をしています。別にわるいことをしているわけではないし、正直老人の多い実家においてウッカリ手を出したら手を離すのが怖くなったという事情もあり、朝ねぐせを直すのも横着してとりあえず洗濯機のスイッチをいれているんですよね。わるいことではない、たしかに。でも、新鮮な風が欲しいところではあるよなあ、家庭に縫い止められてもなあ、なんて思いつつ今日はうすぼんやりと曇っているので、乾燥機を回すかもしれないんです。日々というのはくりかえしなので、いやはや、いくら掃除してもいくら料理をしても、いやはや、終わりは見えない。

よしあしではない問題なんだけれども、少なくともわるいことではない、という点に着目して生きてます。

「家事をする」ということははじめての体験でもないんですけど、専業状態で家事をするというのははじめての体験なので、まだそんなに慣れてもいないし「突発的に用事が増える」という点において、他の職種とそんなにかわるものでもないような気がします。休憩時間は不定期ですが、結局ものごとを逆算して都合のいい時間はあるので、実質「このくらいの時間」程度は決まっていて、家事労働の性質上基本的に屋内勤務ばかりかつそれなりに屋内に拘束されます。休憩時間をはかってくれないぶん、隙間時間にちいさい労働をいれがちになるので、そこは個人の裁量によると思います。日々の固定の家事労働に加えて、スペシャルケア(水垢、油汚れ、その他の時間のかかるお掃除のたぐいや大物のお洗濯など)に、老人がいるので送迎などの臨時労働アリ。

簡単にいえば、「専業主婦」はばかにはできないです。キリもない。「家事は24時間労働」というのは、ほんとうでした。作ろうと思わないと休憩時間がない、というのも大きいですね。あと、「他人のお世話をする」ことのむつかしさ、というか、もう単純にしんどい。

この業務内容でお給料は(ほぼ)でない、っていうのがいちばんのポイントですよね。結構時給高めでもいいお仕事はしている気はすんですけども。

曖昧のやさしさ、そしてtwitterログ

曖昧のやさしさに誤魔化して、やんわりと繭にくるんだblogを書こう、という地味なこころみは、書けるものごとの範囲があまりにも限定されるのでやめようって、あっさりと蹴散らしていくことにしました。

 

そんな前置きをおいたうえで、twitterのログをぺたぺた貼っていきます。

 

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「ですます調」を意識した結果なんとなくまろやかになった文面をキープしようとこころみることがすでにある種の「浪費」であることに気がついたので、おとなしく書きやすさを重視してブログを書こうな。

 

ある種の「浪費」くせがわたしにはあるように思っていて、それをできるかぎりという消極的でエネルギーの少ないラインで、「ポジティブな浪費」に変えてゆきたいわけで、

 

ものすごく簡単にいえば、今日の夕方以降の脳内討論のテーマは「インターネットとはなにか。ラインとtwitterの共通項は、人との距離感を見失わせたことにあるのではないか」です。

 

わたしは相応にラインを使うけれども、わりあいと苦手意識のようなものがある。たとえば、極端な話だけれども、ラインというものがあることによって、「おはよう」も「おやすみ」も届く範囲が異様なほどに広がってしまったよね、というあたりなんだよね。「その場にいない人」に言葉を振るってこと、

 

もちろんラインがなくたって、携帯がある時代ならメールでだって電話でだってできていたし、ここ何年もの期間でゆるやかに進んできた変化だというのはわかるんだけれど、それにしたって、「ラインは遠くの人を隣にいる人のように錯覚させる」ツールのように感じている。

 

11時半にラインが入って、16時に「なあに?」って返信をしたら、「いや、あの時はランチでもどうかなって思って」って返事が返ってくる。距離としては、学生時代にふたつ隣の席の知人に声をかける、くらいの軽さだなあと思う。(ちなみに、これは物理的に距離もあった例なので不適切なんだけども)

 

いいとかわるいとかではなく、「わたしが立っている場所はどこだ!?」と思うときがわりとある。わたしが職場にいようと京都に観光にでかけていようと、まあ、こういう連絡はかわりなく届くでしょう。「いま、ひま?」ってやつだ。

 

twitterも、他人との距離感が、ほんとうはものすごくむつかしいツールなんだけれど、感覚的に使えてしまうから、みんななんとなく使ってしまっている。でも、冷静に考えて他人から突然「おはよう」とか「それってさあ」って、話しかけられる状態はめちゃくちゃ怖くはない?

 

自分だって、twitterを見ていて、オッと思うつぶやきを見たら、公式RTをして「これってさあ」くらい、簡単にやってしまうしやれてしまう。でも、多くの日本人は、「はじめまして」からはじまらない交流になれていないんじゃないかな、と思えてしまう。いや、飲み屋で盛り上がるとかはべつね?

 

前にtwitter上で「おはようとかおやすみとか言ってくれる人は、絡みに行きやすい。そういうつぶやきがうれしい」というのがあって、「おお、そういう捉えかたで、そういう使いかたを、この人はしているのか」ということに、なにかやたらとおどろいた記憶がある。

 

「おはよう」とか「おやすみ」なんて、それこそよほど親しい間柄じゃないと、なかなか通じ合えない挨拶だと、わたしは思うんだけど、そういう垣根を「インターネット」がガツンガツンと壊しているのだなって、かさねて、いいとかわるいとかではなく、ちょっとした文化の変容というか、

 

「インターネットは距離というものを壊すサービス」なんだなって、いちおうインターネットネイティヴ時代(ぎりぎり?)に生まれていて、最近ようやくまざまざと実感している。これは、たしかに、ある世代の、ある種の人たち、にはわからない次元のものだと思う。わたしもわからない。

 

(@n1c6c8)

 

***

 

わたしは結構いろんな意味でおたくなので、twitterのアカウントはじつはひとつじゃないんですけど、そうやってつかっていくうえで、なんとなくぼんやりと思った、それでいてアカウントすべてに共通することというのが、「距離感の喪失」なんじゃないかなって考えました。

アカウントによって結構カラーがちがって、あるアカウントは若い女の子ばっかりフォローしていたら、「相互でおねがいします」とか「ブロックからのブロック解除でおわかれしてください」とかいう言葉を、ちらほらと目にしたりもしていて、なんだかこれもまたふしぎな文化だなって思います。そのアカウントで見かけたのが、上述の「おはようとかおやすみがうれしい」です。なんだか、それ自体はわるいことではないと思うし、「挨拶をすると気持ちがいいよね」っていうのは、耳障りがよいのだけれども、その「おはよう」「おやすみ」は誰にあてたものなんだろうなあって、栓のないことを考えます。

言葉には宛先があると、わたしは思っているし、じゃあこのblogの言葉だって「誰かはわからないが日本語が読めるであろう誰か」に向けて曖昧ながらも焦点をあわせていて、twitterでいうところの「おはよう」「おやすみ」って、でも、じゃあそれをたまたま見た通りがかりのひとに、「おはよう」「いい夢をね」なんて返されることを想定していないものだと思うんですよね。じゃあ、自分をフォローしてくれる人に向けた挨拶なのかというと、なんだろう、blogにおける購読者でもない「フォロワー」ってなんなんだろうなって思っちゃうところがあって、それってぜったいに友だちって呼べるものじゃないんですけど、認識の上では身内の側じゃないかなって思うんです。そういう曖昧な距離感は、固有性があると思うし、固有性のないものなんてほんとうはないんだけど、ちょっと異質さが際立っているから、最初からそれにひたっていない人には、ちょっとびっくりする文化だなってことがいいたかったんです。

「おはよう」「おやすみ」が家族や恋人以外にとどく世界に、いまはなっていて、それが「あたりまえ」になっていることは、ぜんぜんいいとかわるいとか、そういう話をする問題ではないわけなんです。ただ、時代がそうやって変化してきていって、さあ電話ができたとか、さあ携帯ができたとか、そういう流れでラインとかtwitterとかフェイスブックとか、そうこういうblogとかだって、誕生してきていって、また流れて生まれてどこかへ向かっていく、流れのとりとめのなさととどこおりのなさが、ときどき単純にひとをびっくりさせるね。

極端な話、「インターネットが世界に繋がっているって、外国とのやりとりがらくになるよって話じゃなくて、隣町の家のあのこと自分の部屋でお喋りできるってことだったんだあ」ってことに、いまさらおどろいたよってお話なんだけれども、twitterでつぶやいたときとは時間が経ってしまっているので、すこし論点がずれてしまったかもしれず、ちょっと補足とか修正とかいれるかもしれません。

 

で、わたしのメインのtwitterアカウントは「@n1c6c8」なので、なんとなく興味があったら、フォローしてくれるとこっそり覗きにいきます。

 

あ、いまさらなんですけど、新年あけましておめでとうございます。

今年もよろしくおねがいします。

ダークレッドのネイル

年の暮れです。年末年始にかこつけて飲んだくれて過ごそうと思っていたのに、風邪を引いてこうしてキーボードを叩いています。打ち途中のメール、書きかけの文章、せまりくる締切、そんなものを感じつつ、どっとはらい。温暖といわれる土地に住んでいて、雪など降る気配もなく、結局厚手のコートを出さないまま年があけようとしています。さすがにそろそろ、と何度言ったことでしょう。でも、さすがにそろそろコートは出しておかないといけないでしょうね。染み入るつめたさを感じる前に、背筋を震わせる悪寒を感じてしまい、薄ぼこりの舞うおしいれは閉じられたままでいます。

 

なんとなくTwitterやなんとなくTumblrは、いまだに脱せられていないので、年が開ける前にバチリと削除をしようかと考えています。なにごともキリとか、踏み込みのようなものが必要だな、ということは感じていて、大掃除のようなものだと思えば、アカウントの整理とか統合とかもわるくはないかもしれないです。しかし、「このアカウントでやりとりが終わっていない」などのわたしだけではいかんともしがたい事情を鑑みれば、年の瀬にすべてを終えられるとも言い切れないものがあるので、そこははじめの一歩という観点を大事にしていきたいと思います。

 

風邪を引いてむしゃくしゃしていたので、処方箋を渡したその手でドラックストアで買いものをしました。プリプラコスメを2000円以内でみっつ。帰ってきて爪をダークレッドに染めかえて、ほんのわずかな自己満足です。ネイルが自己満足だと誰かにおそわった気がするのですが、じゃあ自己満足じゃないことってなんなんでしょうね。化粧が礼儀だなんて、誰が決めたことなのでしょう。淡いブラウンのグラデーションのアイシャドウが、誰に気づかれなくても誰かに向けた礼儀であるとして、ネイビーのマスカラやゴールドのグリッターは、誰に向けられた非礼だというのかなあと思わなくはないのですが、まあ実際金髪でグリッターギラギラアイズなおねえちゃんに対面したら、「おう、おねえちゃん、ロックだな」って心のなかでくだけた声をかけてしまうかもしれません。外面を整えること、と、自分を着飾ること、はかならずにもイコールではないですね。「こうやって対応して欲しい」という自分の願望がつまるところ、化粧や服装にあらわれるものだとして、ある種の意思表示が増えたと思うと化粧は軽んじられるものではないのでしょう。その「こういう外見をこういう目で見る」、という目そのものが偏見ではないかという視点は持っているにこしたことはないけれども、それはもはや反射にすぎないような気もするのです。疑念を持つ目は、ある種の反射を織り込んで考えないと、空回ってつらい思いをするのかもしれません。でも、ダークレッドのネイルを、ある女の子はきっと「かわいい」と笑ってくれます。

 

世界は窮屈なばかりではない。

年末にもう一度書けたらいいなあと思いつつ。

流れていくので

一年越しに日記を書くことを思いたち、つれづれとキーボードを叩いています。前回の日記が一年前以上昔のものであることを思いつつ、意外とふつうに面白く読み返せるものだなあ、などとぼんやりと読者の目で見たりもしました。季節は冬に足を踏み入れ、しかし、まだ厚手のコートを出してはいません。この週末はさらに温暖になるとか、季節は巡るけれども随分ゆるやかなものだと思ってしまいます。わたしはそんなにかわってはいない気がします。それでも、すこしは変化をしているのだろうとも思います。ときの流れはとどまりはしないし、変化はかくもゆるやかで気づき難いものです。

なんとなくTwitterをしたりなんとなくTumblrをしたり、その他もろもろ。あんまりやりすぎてもわけがわからないので、一元化しようかなあとも考えています。Twitterは一時期結構ハマってしまっていたので、アカウントが複数あって困惑しきりでもあり、複数あるにもかかわらずすみわけができているわけでもない混迷ありきですらあり。身内用のアカウントとしてやっていたはずが、なんとなく気になるひとをフォローしはじめ、知り合い以外のフォローのほうが増えはじめたあたりから、なんだかよくはわからなくなっていますね。ことTwitterやブログに関しては、「知り合いではない漠然と抽象的なだれか」を想定して書きたいときがとても多いような気がします。このブログを知り合いに見られて困るわけではないのだけれど、たとえばフェイスブックのように「知り合いが見ていることを前提とした文章」を書いているわけではなく、たぶんこのブログを知り合いに教えても「知り合いではない漠然と抽象的なだれか」を想定してわたしは文章を書くのだろうと思います。文章を書くのはとても楽しい。空気のいい場所で息を吸っているな、という気分のよさで、埃っぽい路地裏や会社の狭い通路でだってひそめた息はできるけれども、遮蔽物のないひろい中庭でおおきく深呼吸をするのはとても心地がよいよね、という感覚でわたしは文章を書くのだろうと思います。

あかるい近況にしろくらい近況にしろ、なにやらいまは書くのをためらわれます。とくに理由があるわけではないんです。どういう体裁で書けばいいのかよくわからない、という単純なことなのだろうと思うのだけれど、あとは少量の怯懦です。こわがりです。一年を過ぎたけれども、いまのところ恋人も配偶者もいません。でも、おだやかには生きていると思います。いまはとてもなにもできない、有益な存在になんてなりたくない、ただひたすらにゴミみたいに眠っていたい。そんなときだって、わりと多くあります。わたしは価値のない存在だよって思いながら、毛布にくるまって眠ります。目が覚めたら塵になって飛んでいけるわけでもないので、起きたらまずうがいをします。あかるい話もくらい話も、なんにも聞きたくないし、どっちも見果てぬくらいの奥深さで話して欲しいです。遠い話だなって思って、笑ってうなずきます。一年のあいだに愛犬が随分と年を取った気がしています。ひょこひょこと歩くうしろ姿を眺めていると、ときはやっぱりすぎている、とあたりまえのことがかろやかに耳元に囁かれます。

細く長く

12月に足を踏み入れ、健康になったかといえば、そうでもない自分がいます。ブログを書こうかなあ、とすら頭に浮かばない日々でした。「ブログを細く長く続けてみるのもよいものだよ」と友人という名のブログの先輩は語ってくださって、ようやく思い至るわたしです。そう、細く長くを目的としたブログだったのでした。(大部分消したけれども)。

わたしがブログと言ってはじめに思い浮かぶのが、もう10年以上前の、おそらくタグとかビルダーで作られていた「日記」です。よく見ていたはてなではなかった気がするなあ。でも、コメント機能はついていた気がします。「すずとこんぺいとう」さんという、ことりフォントという手書きフォントを配布していたサイトの日記です。張り付くように更新を気にしていたし、ある人生の転機に踏み出そうと決意したのも、この日記があったからだなあ、と思うとわたしの人生のなかで重要なピースだったのだと思います。いまは何をしていらっしゃるのだろうか。すずとこんぺいとうさんが閉鎖されるときに、日記だけ別のところでやるのでメールをくれた方にはお知らせをします、という旨のことを書かれていて、勇気のなかったわたしはメールを送れないまま今に至っています。あのころのオチビさんもきっともう小学生になっていて、旧友をおもいかえすようなあたたかさで、あのひとはなにをしているだろう、とおもったりします。情報があるかた、ひろいネットのなかではいらっしゃるのかしら。元気でいらっしゃればいいなあ。

なんだか、ブログというとそれなりに面白いものを書こうとして、でもユーモアのセンスもないわたしは詰まってしまうので、これからは気負わずに書きたいなあと思います。愚痴愚痴もするかもしれない。どうだろうか。わたしはわたしという軸にいまとても自信がない状況にあるのだとおもいます。それだから、すぐいろんなことがぶれてしまう。ぶれることも面白いとおもうのだけれども、ぶれてる自分からしたらなんともいえないですね。流されるのは苦しく、息がつまります。エンタメ、な感じの書き口をしたいとおもったり、それがいろいろな意味でできない自分を思ったりします。最近不安であたまがパンパンで、とくに、考えを煮詰めるという作業が苦手になっているのでしょう。清涼感が欲しい。あたまに清涼感が、スッキリとした感覚が。とはいえ、いまのわたしには空に手を伸ばすしかできないので、まずは深呼吸からはじめたいとおもいます。

まにまに

あっという間に11月に踏み込んでいました。

なんともはや、なんともはや。

雨ざらし

前の日記から随分日が空いて、アアこの頃はまだ前の職場のことのほうが生々しかったのだなァ、と思ったりします。

今の職場にも多少は慣れたのですが、100日以上働いていてまだわからないことも多いです。

 

前回の日記から今回の日記までの間に、じつはもう一度短期の入院をしていて、その時間は決して無駄ではなかったとは思いつつ、ポジティブにも成りきれない自分がいます。

ささやかな時間は考える隙間を与えてくれたし、それに対して誰が責めるわけでもないのだけれど、歯を食いしばるように明るい方を見なければ、やってはいかれないような気持ちにもなります。

過度に自罰的になったり、「〜せねば」と考えたり、白黒をはっきりとつけようとしたり、そういう三つの認知の仕方が人を追い詰めるんだよ。

そういう話を聞いて、いかにもわたしがしそうな思考だなあ、と思います。

「入院なんてまわりに迷惑をかける」とか「はやく元気にならねば」とか「入院して休むことは悪いことなの」とか、概ねわたしは自分に対してチクチクと傷をつけるのが得意で、それは決していい方向に向かうプレッシャーではないのです。

わたしの思考のどれもが、別に間違ったことではない、ということもまたわたしを追い詰めるのかもしれません。

「いいわるい」は必ずしも当てはめる必要がないことだし、見方によっていくらでもかわることであることは、もうわたしもわかっているのです。

他人の話を聞くときに、自分をチクチクと苛めていることがわかったら、いくらでも「あなたは生きているだけでいいんだよ」と言ってあげられるのに、自分のことになったらとんと言うことも出来ません。

それはたぶんわたしがわたしを客観視出来ていないからなのだろうなァ、と思います。

自分を客観視するということのむつかしさを噛み締めています。